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「食料危機」をあおってはいけない、のここがおかしい
- 2009-04-24 (金)
- 書評
いろいろとアラはありますが、こういう本が出たこと自体は、実に喜ばしい。農政トライアングルの「自給率ないない詐欺」にたいして、「なんか変じゃない?」という視点を、消費者が持てるのは良いことだ。食糧危機については、生産者が都合良く危機感をあおりすぎだと思う。ただ、水産分野の内容は、ちょっと、あんまりなので、専門家として、ツッコミは入れておこう。
買い負けの相手は中国ではない
そもそも、買い負けについて、中国を軸にして話をしている時点でわかってない。中国は世界最大の水産物輸出国である。日本のライバルは、水産物の輸入超過な米国と欧州だ。ノルウェーのサバも一部は中国に流れているけど、中国で加工されて、最終的には日本に来る。もちろん、中国への買い負けが全くないわけではないけれど、日本で養殖の餌にしていたサバが、中国に流れてるとか、そのレベル。
養殖では水産物の増産は無理
「水産物の増産は、養殖以外では困難です」と書いているのも、おかしい。養殖1kgをつくるのに、天然魚が5~10kg必要になるので、養殖を増やせば、それだけトータルで利用可能な水産物は減るんですけど・・・
世界の水産物消費は先進国を中心に増えている
世界の水産物消費は、途上国で一時的に増えるだけで、経済発展するとむしろ減る傾向にある、というのが筆者の基本的な主張。FAOStatを見ればそうではないことは明白だ。一人当たり消費量も先進国を中心にふえている。むしろ、低水準にとどまっているのは途上国である。
筆者は先進国での水産物消費が増えてないと主張する根拠は、いったい何かというと、「個人的な伝聞」と「個人的な印象」だ。
現場の人に聞きますと「・・・」と言います。
・・・というのが私の印象です。
どこのレストランに行ってもそういう印象をうけます。
現地の研究者に話をきいても「・・・」だそうです。
こんな表現ばっかりです。客観性の皆無な、印象と伝聞を重ねて、欧米人は魚を食べていないと結論づけている。唯一数字が出てくるのは、英国の水産物の低下を述べた部分である。「イギリスでも1960年代以降、水産物消費は減ってゆく傾向にあって、1961年の一人当たりの水産物消費量が年間20.1キロあったのに対し、2001年には15.6キロまで落ちています」と書いているが、この数値はデタラメだ。1961年がスタートということはFAOの統計だろう。1961年の値は、FAOの統計とあっているが、その後が違う。
確かに英国の水産物消費量は1961年から下り坂であった。しかし、その後、上昇に転じるのである。英国の水産物消費は、肩下がりとはいわない。どう見てもV字である。で、V字の底が、15.6キロなんだよね。最初の値や、底の値などが、中途半端に正しいのが、不思議な感じだ。
1960年代から1980年代までの下降は、魚から肉へのシフトであった。その当時の魚のイメージは悪かったのだろう。しかし、80年代以降、健康志向を背景に、魚のイメージは、肉よりも良くなった。サブプライム直前まで欧州の景気は良かったので、肉がないから、仕方が無く魚を食べるような状況ではなかった。筆者は「欧米ではもとも魚は肉の代用品で、ハイクラスの人が食べる食材ではないのです。」というが、おそらく、現在の欧州では、所得が高い層ほど、魚を食べているだろう。
英国内のデータを集めてみたら、予想以上に家庭に入り込んでいることがわかった。
http://www.seafish.org/upload/file/market_insight/Seafood_consumption.pdf
2007年のドキュメントみたいだけど、家庭での魚の消費は、2000年から2007年に16%増えたようだ。
英国人が水産物を食べる頻度
食べない 10%
週に1回より少ない 13%
魚を週に1回食べる 36%
週に2回食べる 26%
2回より多く食べる 13%
結論
筆者は次のように結論づけるが、同意できない。
しかし世界の水産物消費の傾向をデータとしてみていると、「世界人口の増加と発展途上国の経済成長によって、世界の魚は争奪戦になり、日本人の口に入らなくなる」ということはないのです。
まず、「データを本当に見たのか?」とツッコミをいれたい。また、最近の一連の記事で示したように、途上国の魚を、先進国間が争奪戦をしているというのが基本的な構図であり、筆者は、根っこの部分で勘違いしているようである。「知らないなら、書かなければよいのに」、というのが、俺の率直な感想でした。
これから魚の輸入量は減るという俺の主張と、魚は余っているというこの筆者の主張のどちらが正しいかは、FAOStatでもつかって、読者の皆さんで検証してみてください。
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再考:食料危機をあおってはいけない
ちゃんと読んだら、とても良い本でした。水産分野のダメっぷりに驚いて他の部分を読んでいなかったんだけど、面白い内容が多かったです。徹頭徹尾、楽観的だね、この人は。でも、それはそれで、重要でしょう。
素人には誤解されやすいんだけど、将来はどうなるか、専門家だってわからない。食料全体の供給がどうなるかは、はっきり言えば、誰にもわからない。もちろん、ある程度の予測はできるんだけど、それは、その人のバックグランドと情報に大きく支配される。100人の専門家がいれば、100通りの予測が出てきてもおかしくはない。そして、どの予測が正解かは誰にもわからない。環境問題でいろんな説が出てくるのは、誰かが嘘を言っているからではなく、それだけ不確実性があるからなのだ。
正解がないからといって、何もしないわけにはいかない。これが実学の悩ましいところだ。俺の専門である水産資源学も、歴史的にこの課題に直面してきた。そういう状況で、我々がどうしてきたかというと、まず、もっとも楽観的なシナリオと、もっとも悲観的なシナリオを作ってみる。未来は、2つの極端なシナリオの間のどこかにあるはずだ。最初に想定の範囲を示しておくと、その後のプランが立てやすい。理想を言えば、想定の範囲すべてに対応できるような方策を準備したいんだけど、一般的に想定の範囲はとても広くなるから、何が起きても大丈夫というケースは例外。ある程度、運が悪くても適応できる戦略を考えておくのが、現実的ということになる。

この本は、すべての歯車が楽観的な方向に廻ったら、どうなるかというビジョンを示しており、楽観的な上限を考える上では、参考になる。この本の最大の効果は、悲観的なシナリオを過度に強調し、消費者に全く寄与しないお荷物生産者を守ろうする、「自給率ナイナイ詐欺」の呪縛から、読者を解き放つことだろう。水産分野を見ればわかるように、この本は楽観的な方向に激しく偏っており、ツッコミどころは多い。だからといって、読まないのは実にもったいない。この本に書かれている楽観的な予測は、まず当たらないと思うが、視野を広げるという意味では読むべき価値がある本である。当ブログの読者にも、是非、目を通してもらいたい。いろんな発見があると思うよ。
それにしても面白い本が出たものだ。「一億総飢餓を防ぐために、零細生産者を守れ」という念仏を、大声で唱えていれば、研究費もポストも空から振ってくる。そういう世界で、こういう本はなかなか書けない。たぶん、筆者は、正直者というか、お調子者なのだろう。こういう人がどんどん出てくると、世の中、面白くなるね。
日本の一次産業も盛り上がって参りましたっ!!
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こちら石巻さかな記者奮闘記
この本はなかなかおもしろかった。朝日新聞の経済部の記者が、定年後に石巻支局に赴任し、漁業について書いた本。しっかりと現場の取材をしているし、素人(一般人)目線でかかれているのが良い。一線で活躍してきた新聞記者だけに、現場を伝える能力は抜群だ。この本は、漁業に対して好意的なんだけど、漁業ヨイショ一辺倒ではない。筆者の漁業に対する問題意識を、宴曲に表現している。書くことと、書かないことの区別、そして、書く部分の表現の選び方は絶妙だ。このあたりは、ベテラン新聞記者の技だね。
第二章のメロウド(イカナゴ)漁のレポートは、実に秀逸だ。日本漁業の問題点が透けて見える。
出航してから約二時間、漁場に着いたのだろう。(中略)周りには何隻も同じように舳先から長い棒を突き出した船が見える。(中略)エンジンを切らないのは、カモメの動きからイケ(魚の群れ)を見つけたときに、僚船よりも早くイケに近づくためだ。(P38)
イケに向かうときは、周りの僚船との競争になる。早くイケに近づいた方が最初に網を入れることができるというのが漁師仲間の昔からのルールだそうで、イケを見つけて、早くイケに近づくのも船頭の腕と言うことになる。僚船と鉢合わせする機会が数回あったが、賢一さんはいつも最初だった。(P40)
石巻漁港で水揚げを終えたところで、水揚げだかを尋ねたら約12万円とのことだった。ここから燃料代などを差し引くと、手元にはそれほど残らない計算だ。(P41)
私が乗ったメロウド漁は好漁だったので、(P49)
この情報を総合すると、こうなる。
- 少ない魚群を大量の船で奪い合っている
- 早取り競争に勝つために、常にアイドリング→大量の燃油の浪費
- 好漁日に、成績上位の船ですら、利益が出ない
多すぎる漁業者が、少ない魚群を奪い合う。早取り競争に勝つために、船体に不釣り合いな馬力のエンジンを搭載し、一日中、アイドリングをして、群れを見つければ全速で走る。燃油を湯水のように使い、資源を枯渇させながら、利益が出ない。沿岸漁業の実像が、克明に描写されているではないか。俺が常々書いている通りなのだ。でも、この漁業はマシな方だと思うよ。
では、どうすればよいのだろう。多すぎる漁船を適正規模まで縮小するのが最善だが、それがままならない場合も多いだろう。現在の隻数を維持しながらでも、競争による無駄なコストを削減することはできる。この漁場に対する適正な隻数なんてたかがしれているのだから、ローテーションを組んで、適正な隻数だけ出漁するようにする。また、群れの奪い合いを防ぐために、全ての船の漁獲金額をプールして、均等に再配分するプール制も有効だ。やり方は、いくらでもある。
燃油高騰は、現在の非効率的な競争操業を改める絶好のチャンスだったはずだ。しかし、安易な補填によって、その芽はつまれてしまった。何も考えずに、皆で漁場に出かけて、我先に群れを奪い合っているうちは、産業としては成り立たないだろう。この状態を維持するために公的資金をつかっても、長い目で見て漁業者を救うことにはならない。
「第三章 漁業を考える」では、地域捕鯨と遠洋捕鯨の摩擦、燃油問題など、日本漁業の問題について整理している。昨年暮れの東大のシンポジウムについてもふれている。議論のかみあわなさについて、率直な意見が書かれており、よく観察していると思った。
筆者は、思いやり予算をストレートに配るべきと言う立場である。水産庁が、燃油補填に対して、5人以上のグループ化を求めたことを、「結果的には使いづらい補助制度になった」と批判しているが、そうだろうか。個人の取り組みによる省エネには限界があるが、グループ化で無駄な競争を省けば、燃油は大幅に節約できる。公的資金を使う以上、無駄を省く努力をするのが当たり前である。補償金の要件として、グループ化を求めるのは、納税者に対する最低限の筋だとおもう。問題は、グループ化による操業合理化に全く向かっていないことだろう。
いろいろと書きたくなってしまうのは、ネタがよいからだろう。ただ、漁業という観点から書かれている、2章と3章は読み応え十分。ただ、4章と6章は、地方の話がとりとめもなくつづく。新聞社の地方支所の日常を垣間見ることが出来るが、漁業にはあまり関係がない。5章では魚の食べ方を説明しているのだが、俺的には目新しい情報はなかった。一般の読者にはこういうコーナーも必要だろう。
結論
読む価値がある本だった。当ブログ読者は、買って読むべし。文章が読みやすいので、さくっと読めるはずだ。消費者目線を維持しながら、漁業の現状がうまく記述されている。たった1年で、ここまで書けるのは、流石である。
石巻の漁業だけをいくら見ていても、漁業を発展させるための知恵は浮かんでこないかもしれない。石巻の現場を知った上で、海外の持続的に利益を出している漁業(たとえば、ノルウェー)を見れば、石巻にも使える知恵が数多く見つかるだろう。そういう情報を、地方に還元することこそ、地方魚記者の役目だと思う。国際的な視点と、経済的な視点をもつ、魚記者はまさに適任と言える。魚記者の今後の活躍に期待をしたい。
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蟹工船の未来
蟹工船は、企業による労働者の搾取を描いた小説である。すでに著作権が切れているので、青空文庫で読むことができる。大学の生協でも平積みになっていたので、かなり売れているのだろう。蟹工船は、劣悪な条件で酷使される蟹工船の漁業者が、ロシア人の入れ知恵でサボ(ストライキ)を断行する、という話だ。テンポの良い独特な文体で、労働者から搾取する企業・国家権力を風刺している。さくっと読めるので、まだ読んでいない人は、是非。
戦後の日本の沿岸漁業は、小林多喜二の理想を具現化したようなものだ。排他的漁業権を持つ漁業者組合が、沿岸の絶対的な支配権を持っている。水産系の大企業は、過剰な漁業者を抱える沿岸ではなく、外海へと広がっていった。結果として、日本沿岸から企業的漁業は姿を消して、今日に至っている。
沿岸からは企業を排除した。漁業者は海に出ないでストをしている。小林が、今の沿岸漁業を見たら、「これぞ、理想の社会」と泣いて喜ぶかもしれない。では、労働者は豊かになったのかというと、そうではない。漁業者は再生産も出来ずに減少しているし、養殖業者は原価割れのただ働きだ。企業を排除して、個人営業のみになれば、みんなが幸せになるわけではない。そのことは、日本の沿岸漁業の歴史が証明している。
漁業が地域の基幹産業として機能するには次の2つの条件が必要である。
条件1)漁業で安定的な収益を得る
条件2)利益が関係者・地域にきちんと還元される
蟹工船の場合、漁業の利益は労働者に還元されなかった。資本家の搾取によって、条件2が満たされていなかったのである。このような不平等は許されるものではない。リスクを負っている労働者に、きちんとした対価が支払われるべきだ。一方、企業を排除した日本の沿岸漁業からは、経営の合理性が失われてしまった。互いに競争関係にある個人が、過剰競争によって、有限な再生資源を食いつぶす、「共有地の悲劇」の見本のような状態になっている。こちらは条件1が満たされていないのである。そもそも利益がなければ、搾取されようがない。逆に、漁業者の方が、「俺たちが魚を獲らないと困るだろ」と声高に主張して、補助金をゲットしている。
資本家の搾取が諸悪の根源であり、企業をなくせば問題が解決するわけではない。個人は善で、企業は悪というような、単純な二元論を脱却し、条件1と条件2を両立できるような漁業の形態を、企業・個人を問わずに模索していく必要がある。企業であれば条件2をどのように確保するか、個人であれば条件1をどのように確保するかが、課題だろう。
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