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漁業の歴史 part3


高水準期 - 公海自由の原則の崩壊

ここでは、1972年から1988年までの15年間を高水準期と定義したが、
これは日本の漁獲量は世界一ィィイイィィイイ!であった期間でもある。
ただし、その内情を詳しく見ていくと、
日本漁業は既に斜陽にさしかかっていることがわかる。

1945年 トルーマン米大統領が大陸棚及び漁業保存水域に関する宣言を発表
1972年 米国で海産哺乳動物保護法(MMPA)が履行
1973年 第1次オイルショック
1973年 県の栽培漁業センターの設立が始まる
1976年 米国200海里法成立(各国追従)
1977年 日本12海里領海法、200海里漁業水域法を制定
1978年 農林水産省発足
1979年 全国に国の栽培漁業センターの設立が始まる
1982年 商用捕鯨全面禁止(モラトリアム)
1983年 日本が国連海洋法条約署名
1985年 日米協議の結果、日本はIWCに対し、異議申立てを撤回

公海自由の原則の崩壊
1972年のMMPAは90年代に日本の公海漁業を規制するのに利用された方案である。
やはり米国は布石を打つのが早い。それに対して、日本はあまりに無策・・・
1973年に第一次オイルショックが勃発し、遠洋漁業がその煽りをうける。
戦後急速に伸びた遠洋漁業は1972年の約400万トンを最高に減少に転じることとなる。
1976年に米国が200海里法を成立させると、各国がそれに追従。
沿岸国による水産資源を囲い込みによって、「公海自由の原則」が崩れたのだ。
200海里に反対の立場をとっていた日本も、世界的な流れには逆らえずに、
1977年に12海里領海法、200海里漁業水域法を制定する。
この時点で、日本漁業の拡張主義は終わりを告げたのだ。
米国200海里法は、1945年の「大陸棚及び漁業保存水域に関する宣言」が元となっており、
終戦と同時に海洋資源囲い込みの布石を打っていたことがわかる。
200海里時代に突入すると公海が狭まったのだが、
狭くなった公海での漁業への圧力も増してきた。
そして、1982年には商用捕鯨全面禁止(モラトリアム)がIWCで決議される。
日本は異議申し立てをしたものの、米国の圧力により1985年に異議申し立てを取り下げた。

マイワシの増加
このように1970年代以降は沿岸国による漁場の囲い込みで、
日本の漁獲増産を支えてきた「公海自由の原則」が崩壊した。
日本の漁業生産を牽引してきた遠洋漁業が衰退していったものの、
日本の漁獲量は増加を続けていくことになる。
その理由は、偶然にもマイワシがこの時期に増加したからである。
1960年代には幻の魚と呼ばれるほど減少していたマイワシが
1970年代に入って、増加をはじめた。
1972年に殆ど親が居なかったにもかかわらず、大量の仔魚が発生したのだ。
日本はマイワシの保護など一切行っていなかったので、
マイワシの増加は自然現象と考えられている。
おそらく、海洋環境が卵の生き残りに適していたと考えられているが、
その海洋環境の条件は未だに特定されていない。
その後も、マイワシ資源は増加を続けて、ピーク時には450万トンを超える漁獲があった。
マイワシの増加の影響を図示してみよう。

gyokaku.png


黒線が日本の総漁獲量、赤線がマイワシを除く総漁獲量である。
マイワシを除く漁獲量は、1973年以降ほぼ一定の割合で減少をしている。
マイワシ・バブルによって覆い隠されていただけで、
1970年代には、すでに日本の漁業は下り坂だったのだ。
日本漁業が行き詰まった瞬間に、マイワシ増加という神風が吹いたのだ。

厳しさを増す漁業経営
マイワシのおかげで漁獲重量は伸び続けたのだが、漁業経営は厳しさを増していった。
魚の単価は、消費者物価並みには伸びていかなかった。
一般国民との生活水準のギャップを埋めるためには、漁獲量を増やす必要があった。
1970年代後半以降はそれでも埋め合わせが利かず、漁業者の生活水準は下がり始めた。
この時期に多獲されたマイワシに対する需要は低く、値段が殆どつかない状況だった。
獲っても儲からないけれど、それでも獲らないとやっていけないという状況であった。
漁業の生産金額は1982年にピークの2兆9772億円を記録してから、減少の一途を辿ることになる。
他の産業が発展を続ける中で、漁業のみが生産額を減少させていったのだ。


その時、水産庁は?
当時の国際情勢を考えれば、公海での漁業が規制されていくことは明白である。
消去法的に、自国の資源を大事に使う以外に道はないように思う。
しかし、水産庁はそういう方向は目指さなかったようである。
当時の水産白書は見つからなかったので、代わりに科学技術白書を見てみよう

1962年(昭和37年)
「したがつて,今後における漁獲量の増大は

  1. 沖合漁業とくに遠洋漁業の開発
  2. 未開発資源の開発,新漁場の開発
  3. 養殖の開発

などにもとめることとなろう。

1974年(昭和49年)
今後とも、新漁場の開発や大規模な増養殖事業の展開により、漁業生産は拡大すると思われる

1983年(昭和58年)
海洋生物資源は、我が国の将来における食料供給において大きな役割を果たすものと考えられている。
このため海洋のもつ潜在的可能性に鑑み、海洋生物資源の利用の増大を図るためには、
資源培養技術開発、漁場造成技術開発、未利用資源開発等を推進する必要がある。

200海里時代の前後を挟んで、水産政策は全く変化していないことがわかる。

戦後の水産政策の3本柱

  1. 新漁場開発
  2. 未利用資源の開発
  3. 栽培漁業

新漁場開発と未利用資源の開発は、増加期の手法そのままであり、
200海里以降の時代の流れと完全に逆行している。
唯一の新しい方法論は栽培漁業である。
栽培漁業は、遠洋漁業に代わる水産行政の柱として、
70年代以降、国策の中心に据えられることになった。
1963年に瀬戸内海に栽培漁業センターが設立されたのを皮切りに、
1973年から県の栽培漁業センターの設立があいつぎ、
1979年から全国に国の栽培漁業センターが設立された。
このように器を整えた上で、潤沢な資金が導入され続けたのだが、
マイワシを除く漁獲量の変遷をみればわかるように、
現在の資源の減少を食い止める効果は無かった。
ついでに、養殖についても見てみよう。
平成15年現在、国内の水産物の消費量(食用)は802万トン。
それに対して、魚類の養殖生産はたったの26万トンである。
26万トンのうち、ブリ15万トン、マダイ8万トンで、2魚種で9割をしめるのである。
養殖だけでやっていこうと思うと、一人あたりの魚の消費量を30分の1にして、
さらにブリとマダイしか食べられないことになる。
最近15年は生産量は横ばい、生産額はやや減少傾向にあるのだ。
「金はいくらでも出すから、採算を問わずに生産を上げろ」ということを
すでに何十年も続けてきて、この程度の生産量なのだから、
今後も増養殖が獲る漁業の代替とはなり得ないだろう。
豆知識:栽培漁業と養殖業のちがいはなに?

yoshoku.png

養殖生産量(t)

夢の終わり
日本の漁業が限界を迎えた70年代に、偶然にもマイワシ増加という神風が吹いた。
しかし、日本は漁業の構造を変えるための有効な手段を講じなかった。
その結果、1988年以降マイワシが減少しはじめると、
坂道を転がり落ちるように漁業生産は減少を続けることになる。

つづく

Comments:2

kato 06-09-06 (水) 13:57

マイワシのグラフにスケソの構成も加えると、減少度はもう少しフラットになると思います。また沿岸漁家だけで見ると、漁獲金額のピークはバブルの頃で(たぶん)70年代よりこちらの方が景気は良かったように思えます。

勝川 06-09-11 (月) 17:24

コメントありがとうございます。
やっつけ仕事で作ったので、つっこみどころは多いと思いますが、
つっこんで頂けると助かります。
ご指摘頂いた点は、新しく図を作ってみました。
http://kaiseki.ori.u-tokyo.ac.jp/~katukawa/blog/2006/09/post_40.html

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