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流通・消費 Archive

日本の流通システム その3 多様化する水産物流通

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セリを経由する日本の伝統的な流通システムは制度疲労をしている。
セリを通らずに流通する新しい経路が急速に広がり、現在は主流になっている。
流通システムが多様化する様子を見てみよう。

増加する市場外流通

市場を通る魚の割合が急速に減少している。
市場外流通と言われる新しい取引形態が急増しているのだ。

img08061008.png

市場外流通が広まる背景としては、末端の消費者の鮮魚購入先が、
魚屋からスーパーマーケットへと変化したことが大きい。
スーパーマーケットは独自の情報網と大口の消費者ならではの購買力で、
生産者と直接取引をすることができる。
結果として、市場を通らない取引が伸びているのだ。

多様化する市場内流通

市場を経由する割合が減少するのと並行して、
市場の中でもセリを通る従来のルートが衰退している。
下の図は中央卸売市場におけるセリ・入札取引の割合(金額ベース)である。
すでに8割近い魚がセリや入札を経ないで取引されているのだ。
特筆すべきは鮮魚のセリ・入札取引の割合の減少だろう。
15年の間に60%から、38%へと低下している。
もっともセリが効果的と思われる鮮魚で、セリ・入札離れが起きているのだ。
塩干加工、冷凍などは日持ちするため、もともとセリの割合が低いのだが、こちらも減少傾向だ。

img08061006.png

伝統的なセリに代わって、市場内流通の主流となっているのが、
荷受と直接交渉をして、売買契約をする「相対」と呼ばれる取引方法だ。
相対で荷受と取引できるのは、仲卸と買参人である。
買参人は、荷受と直接取引に参加できる資格である。
買参人は、仲卸のように場内に店舗を持たずに、
スーパーなどの量販店や水産専門商社向けに大口の買い付けを行う。
仲卸のめがねにかなわなかった魚を、買参人が大量にやすく買いたたき、
スーパーで薄利多売をするという構図だ。
魚の質にこだわるなら魚屋で、
そこそこの質の魚を安く買いたいならスーパーということになる。

まとめ

日本の水産物の流通をまとめると次のようになる。
img08061101.png
水産物の流通システムは、緩やかに一定方向に変化を続けている。
このような変化を引き起こしたのは、消費者の行動の変化である。
fb.1.2.5.gif
http://www.maff.go.jp/hakusyo/sui/h16/html/fb.1.2.5.htm

消費者は、魚屋ではなく、スーパーマーケットで魚を買うようになった。
購買スタイルの変化と並行して、魚の流通も大きく変化してきた。
おそらく、今後も現在のトレンドは続いていくだろう。

日本の流通システム その2

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荷主(漁業者)と荷受(せり人)の間は比較的自由度がある。
荷受けは千客万来。売れたら手数料が自動的に入るので、流通量が多い方がよい。

荷主は魚を高く売ってくれそうな荷受けを選ぶ。

ひとたび荷受けに入ると後の流れでは、自由度はない。
セリ場は、排他的な閉鎖空間である。
せり人、仲卸は、ほぼ毎日同じ作業を繰り返す顔見知りである。
仲卸はセリのライバルであると同時に、仲間でもある。
お得意の小売りが必要としている商材が不足してしまった場合など、
他の仲卸から融通をしてもらうような相互扶助の関係がある。
仲卸はせり人の特徴を把握している。
どういう順序で魚を出すか。サンプルとして良い魚を選ぶか、無作為で出すかなど。
せり人の特徴も考慮に入れた上で、値段をつけるのである。
閉鎖社会の繰り返しゲームの結果、セリ場の相場観は共有されていく。
その結果、セリ場では買い手がつかなくて買いたたかれることはあっても、
魚が法外な値段で高く売れることはまず無いだろう。

仲卸と小売りの関係も閉鎖的である。
仲卸は、取引先(飲食店や小売店)の需要をきめ細かく把握した上で、
専門知識を活かして、適切な魚を適切な値段で供給する。
これにより、取引先のカラーに合った、きめ細かなサービスができるという利点がある。
逆に、価格においても、内容においても、売買の硬直性を招く怖れがある。

Image200806101.png





水揚げは、天候や市況や人為的な不確定要因で日々変動するのだが、

日本の伝統的流通システムは、水揚げの変動を柔軟に吸収し、
鮮魚を素早くに小売りまで流すことができる。

このシステムは閉鎖的な人間関係で結ばれているのが特徴だ。
逆に言うと、顔見知り以外が参加することはまず不可能なシステムである。

日本の流通システム
地産地消を前提とした、鮮魚マーケットに特化している
排他的・固定的な商関係を前提

日本の流通システム (せり、仲卸)

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ノルウェー漁業と日本漁業は好対照だと思う。
特に流通も含めた全体のシステムとして、比較をするとおもしろい。
当サイトの読者の中には日本の流通システムについて不勉強な人も多いだろう。
水産資源学なんてやってても、流通には縁が無いからね。
比較の前段階として日本の水産物流通システムについてまとめてみよう。

日本で伝統的に行われていたのは、市場でのセリだ。
これこそが、日本的なシステムと言えるだろう。

Image200806062.png

 

 

まず、漁業者が海で魚を獲ってくる。

 

 

 

 

 

魚を市場(いちば)に集めるのが荷受である。荷受には専属のセリ人がいて、市場でせりを開催する。

 

 

 

 


 

 

 

市場で荷受から品物を買うには資格が必要である。この資格をもっているのが、仲卸(仲買人)である。

 

 

 

 

 

 

仲卸は消費者に直接販売をしない。
販売先は小売店料理屋である。

 


地方卸売市場で実際にセリの現場を見てみよう。
ここは関係者以外立ち入り禁止なのだが、場長さんにお願いをして、
セリの邪魔をしないという条件で見学させてもらった。

港に隣接した市場に、毎朝、魚が集まってくる。
集められた魚は発泡スチロールの箱に並べられる。

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セリが始まってしまえば、一瞬で値段が決まるので、
セリが始まる前に仲卸は入念に魚の品定めをする。
無言で魚をなめるようにチェックする仲卸は、まさに「プロ」という感じです。
品定めのために、セリの数時間前から、魚を展示しておくことになる。

これがセリの風景です。
オレンジの帽子がセリ人で、水色の帽子が仲卸です。
セリ人が独特の調子で商品の説明をすると、仲卸が指で値段をつける。
もっとも高い値段をつけた仲卸が落札することになる。
あっというまに、大量の箱が処理されていきます。
img08060606.png

築地の場合は、仲卸が場内に店舗を持っており、そこに小売店から魚を買いに来る。
この市場には仲卸の店舗らしきものが無かったので、
落札された魚を仲卸が小売店へと配達するのかな。


伝統的流通システムまとめ

img08060609.png

伝統的な水産物の流通システムは上のようになっている。
市場に上がってくる質も量も不安定な鮮魚を、
多種多様なニーズを抱える小売店へと適切に流すための洗練されたシステムである。
このシステムで中心的な役割を果たすのが、高度に専門化した仲卸である。
荷受は、落札額が高くなるようにセリの順番を工夫したりもするが、
最終的な値段は仲卸が決める。
仲卸は魚の目利きでなければつとまらない。
それと同時に、仲卸は顧客である小売店・飲食店のニーズを正確に把握しておく必要がある。
競り人と仲卸は顔見知りである。毎日の取引を通じて、相場を熟知している。
仲卸と小売りとは専属契約のような関係にある。

専門知識と人間的なつながりによって、
顧客のニーズに合ったきめ細かいサービスを提供するのが仲卸の強みである。
仲卸が介在することによって、質・量ともに日々変動する水揚げ物を効率的に消費者まで流すことが可能なる。

日本独自のエコラベルに値上げの噂が・・・

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日本版エコラベルが値上げをしたという噂をキャッチした。

まえは、「電車賃程度」という話だったのが、なんと100万円程度になるらしい。

もちろん、審査費用が100万でも、それだけ厳密な審査をするというなら問題はない。

しかし、厳密な審査で日本独自のエコラベルが運用されるとは、とうてい思えない。
エコラベルの本来の目的は「持続的な漁業を勝ち組にする」という差別化である。

護送船団の染みついた日本漁業界で、エコラベル本来の差別化の運用は難しいだろう。

申請者には基本的にシールを配るとしても、日本版エコラベルに100万円の価値は無い。

魚を輸出するなら、MSCが要求される時代になりつつある。
輸出を前提とした漁業なら、数百万の申請費用を負担しても、MSCをとることの経済的な見返りはある。
MSC認証を獲れる漁業はMSCを獲れば良いだけの話だし、

MSC認証をとれない漁業も認証するとなれば、MEL(J)自体が無視されるだけだ。
日本版エコラベルがMSCの代替として、国際的に認められる可能性は極めて低い。
輸出に関しては、日本独自のエコラベルは評価の対象外だろう。
一方、日本国内はどうかというと、消費者はそもそも持続性に関心がないので、

シールを張っても、経済的な見返りは無きに等しい。



輸出をするならMSCが必要であり、日本独自のエコラベルはMSCの代替にはならない。
また、輸出をしないなら認証自体が不要なのだから、
日本独自のエコラベルなど、そもそも必要ないと思う。
それでも「シール代1万円」とかなら洒落になるが、100万円はちょっと信じがたい。
本当に値上げをするのだろうか?
俺的にはガソリン代よりこっちが気になって仕方がないです。

食品のリスクのいろいろ

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食品のリスクといっても、いろんな種類のものがある。
たとえば、添加物による健康のリスク、賞味期限に達しても売れ残るリスクなど、いろいろだ。
この手のリスクは、トレードオフになっていたりする。
例えば、食品添加物には、食品が腐敗するというリスクを減らす効果がある一方で、
摂取することによる潜在的な健康リスクが存在する。
これらのリスクはトレードオフであり、それぞれの割合を決めるのが添加物の量だ。
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リスクには目に見えるものと、目に見えないものがある。
食品が腐敗していた場合、消費者にはすぐにわかるし、責任問題に発展する。
一方、潜在的な健康リスクを実証するのは困難であり、責任を問われることはないだろう。
製造者にとっては、消費者の健康リスクよりも、
自らが責任を負う腐敗のリスクを避けることが重要になるので、
食品添加物を山盛りにするだろう。
目に見える腐敗のリスクを減らす代償として、目に見えない健康リスクが増えていく。
厳密な表示制度がなければ、見えるリスクが見えないリスクに置き換えられている。
結果として、消費者は多くのリスクがある食品を食べる羽目になる。

消費者による食品リスク管理を進める上で重要なことは、
1)現存するリスクの種類を明らかにすること
2)それぞれのリスクを評価する手法を確立し、表示を徹底すること

食の安全保障のあり方を再考する

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食の安全を考える際に重要なことは、リスク論であろう。
安全とはリスクであり、いくらコストをかけてもリスクは0%にはできない。
リスクをどこまで許容するかというのは消費者の価値観の問題であり、
行政や専門家が決めることではない。
リスクと値段のバランスを考慮して、
安全に対してどこまでコストをかけるかを決定するのは消費者である。
行政の役割はリスクを評価するための表示を徹底することであり、
専門家の役割は表示からリスクを評価できるように情報を整備することだろう。
判断は消費者の自己責任であり、行政と専門家はそれをサポートする。
これが正しい食品リスク管理のあり方だと思う。

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しかし、日本の現状は、これとはまったく違う。
日本では、行政が一意的な安全基準を決定する。
消費者に変わって、行政が許容リスクを決定しているのである。
一方、消費者は店に並んでいるものはゼロリスクだと勝手に考えて思考停止する。
リスク管理を行政に丸投げして、ゼロリスクを要求しているのである。
そもそも無茶な要求をして、何かあると文句ばかり言うのだから、行政も大変だ。
Image200801241.png
日本の消費者にリスクという感覚はない。
店に並んでいるものは100%安全であるべきだと信じている。
だから、値段だけ見て買い物をして、何かあるたびにヒステリックに反応する。
まさに、だだっ子だ。

「食の安全が揺らいでいる」というのは、
消費者が「ゼロリスクではない」と気づき始めた良い兆候である。
今まで日本の消費者が持っていた根拠のない安心感の方が異常なのだ。
公的機関が安全宣言をしたり、運が悪い企業に見せしめ的に厳しい処罰をしても、
ゼロリスク信仰を取り戻すのは不可能だろう。
むしろ、これを良い機会と捉えて、ゼロリスクは無理ということを教育しながら、
食品のリスク管理を本来のあり方に徐々に戻していくべきだと思う。
行政と専門家は、消費者の代わりに何が安全で何が危険かを決めるのではなく、
消費者自身がリスクを判断するためのサポートに徹するべきである。

類似品にご注意を~日本版エコラベル

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日本でも独自のエコラベルをつくる取り組みが始まっている。
すでに、口が悪い読者からは「泥棒が売る防犯グッズ」などと揶揄されているとおり、
かなり駄目っぽい。

資源管理更新国である日本では、MSCのエコラベル認証をとれそうな漁業はほとんど無い。
MSCのエコラベルが普及すれば、資源管理をしている国とますます差をつけられてしまう。
そこで考案されたのが日本独自のエコラベルだ。
エコラベルを貼れない日本の漁業者がかわいそうだから、
誰でも張れるエコラベルを自前で準備したのだろう。
(そもそも資源管理をまじめにやろうという発想は無いのだろうか?)
電車賃程度で認証可能という時点で、消費者をを小馬鹿にしてる。
担当者「資源管理やってる?」
漁業者「うちは、ちゃんとやってるよ」
担当者「このシールを張っておいてね。それじゃあ。」
というようなことが行われるのは目に見えている。

厳密に審査をされたMSCのエコラベルと、誰でも張れる日本のエコラベルはまったく別物である。
しかし、一般の消費者にはエコラベルの区別はつかないだろう。
まんまと騙されて、非持続的な漁業で獲られた魚を高く買わされてしまう。
これは、乱獲された魚を騙して売りつけられる日本の消費者にも、
まじめに管理に取り組んでいる一部の日本の漁業者にも不幸な事態である。

MSCのエコラベルの根底にあるのは差別化の思想である。
消費者の力で、持続的な漁業を勝ち組にすることで、
世界をより持続的な方向に導くという狙いがある。
一方、日本版エコラベルの本質は、みんな横並びの護送船団である。
みんなで足並みをそろえて、仲良くシールを張りましょうということだ。
似たようなシールを無差別に貼れば、消費者は判断基準を失ってしまうので、
非持続的な日本漁業が差別されるのを防ぐことができる。
世界のエコラベルが目指す差別化を台無しにする効果があるのだ。
同じような取り組みでも、運用次第でまったく逆の機能を持つのである。
本来は資源管理だったはずのTAC制度も、
水産庁が運用すれば乱獲を容認するための免罪符に早変わりする。
こういうところだけは、本当に知恵が回る。
その知恵を、漁業を良くするために使って欲しいものである。

護送船団方式は、産業を傾ける確実な方法である。
生産性が低い、非持続的な経営体を保護する代償として、業界全体が沈んでいく。
味噌もくそもごった混ぜにして、横並びでシールを貼ろうという計画は、
漁業にとって百害あって一利なしである。
こういった愚行を、食い止めるのが専門家の使命であろう。
TAC制度も、ABCとTACの乖離をネチネチと指摘し続けた結果、
徐々にではあるが風向きが変わってきつつある。
日本版エコラベルに関しても、非持続的な漁業に対してシールを貼っていたら
嫁をいびる姑のように、ネチネチと問題にしていきたい。

認証第1号は2008年度半ばになる見通しだ。
http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200712070039a.nwc

ということで、どんな漁業がでてくるのか、わくわくしながら待つことにします。

エコラベルという新しい試み

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消費者には、その魚が持続的に漁獲されたものか、
それとも乱獲されたものかを区別できない。
乱獲された魚と資源管理された魚では、
短期的には乱獲された魚の方が値段が低くなる。
悪貨は良貨を駆逐するということになるわけだ。
これは、まじめに資源管理をしている漁業者にとっても、
将来も魚を食べ続けたいと考える消費者にとっても不幸な事態である。

この状況を変えるための試みとして、
MSCのエコラベルが世界的に広まりつつある。
MSCのエコラベルは持続的に漁獲をされた魚にシールをはる。
意識の高い消費者が持続的な魚を選べるようにする試みだ。
下の青いシールが目印だ。

Image200801201.png

エコラベルの取り組みは、ユニリーバとWWFが初めて、
現在は非営利団体(Marine Stewardship Council)が運営している。

 合計で、およそ70の漁業がMSCの取り組みに携わっており、
24漁業が認証済み、34漁業が審査中、さらに20から30が非公開予備審査を受けている。
これらの漁業を合わせた水産物の年間漁獲量は4 百万トンを超える。
日本の海面漁業生産と同じぐらいだ。
世界の海面漁業生産(中国のぞく)の7%がMSC認証を受けている計算になる。

特にMSC認証率が高いもの
世界の天然サケ漁獲量の42パーセント
世界の主要な白身魚漁獲量の40 パーセント
世界の食用イセエビ漁獲量の18 パーセント

日本では、イオングループがMSC認証の水産物を販売しているものの、
あまり目にする機会はないだろう。
しかし、欧米ではすでに市民権を得たと言っても良い。
たとえば、マクドナルドやウォールマートは、
MSC認証製品以外の水産物は扱わないと宣言している。
07年11月に、MSC認定製品が1000に達した。
最初の製品から500 番目の製品までには7 年もかかりましたが、
それからわずか9 カ月間でその数は倍増したのだ。
持続可能な認証水産物の需要はきわめて高い。
消費者の意識の低い日本ではアレだが、
世界では持続的であることがビジネスチャンスを生むのである。

日本漁業でもMSC認証を目指す動きがある。
京都府機船底曳網漁業連合会(アカガレイ、ズワイガニ漁)、
北海道のホタテとサケが審査中だったかな。
まあ、どこもすんなりとはいかないようですね。
京都のズワイガニはまだ正式に認証されてはいませんが、
すでにフランスから輸入の申し込みがあったりするようです。
小サバの輸出みたいなのは即刻止めるべきだけど、
日本人よりも高く買う国には、輸出を促進すべきだろう。
そのための一つの手段として、エコラベルは重要だ。
ただ、認証には数百万単位で費用がかかるのがネックかな。
まあ、まじめに審査をすればそれぐらいの出費にはなると思う。

意識の高い生産者が、生産現場の情報を消費者に与える。
意識の高い消費者が商品を買うことで、持続的な漁業を支える。
エコラベルは、生産現場と消費者を結びつけることで、漁業を変えようという新しい試みだ。
MSCの今後の発展に期待をしたい。

魚の小売り価格は、肉が決めている

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情報の分断に小売りが果たす役割は大きい。
小売りは徹底的な情報規制をする。
「大丈夫。店に並んでいる物はすべて安全です。
皆さんは値札だけをみて、好きな物を選んでください。」
その結果、消費者はどんどん買いたたく。

では、小売りが一人勝ちかというと、そうでも無さそうである。
小売りは小売りで、厳しい競争に晒されており、
自分たちで好きな値段をつけられるわけではないのである。

生鮮食料品(肉・魚)の価格の変化を消費者サイドから見てみよう。
内務省統計局の家計調査(二人以上の世帯
http://www.stat.go.jp/data/kakei/2006np/02f.htm)から、
家計が購入した生鮮魚介と生鮮肉の平均単価を抽出した。

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70年代、80年代を通して、魚の単価は安定的に上昇し、1990年代前半に肉の単価に追いついた。
その後は、同じようなトレンドで推移している。
1991年の牛肉自由化によって、肉の単価が下落すると、魚の単価も同じように下落した。
2003年12月に米国でBSE感染牛が発見されると肉単価の上昇した。
その後、魚の単価も引きずられて上がっている。
肉と魚は競合関係にあり、その価格には強い相関がある。。
魚の末端価格を決定するのは、肉の値段であり、
肉の値段は様々な国際情勢に左右される。

一部の生産・加工業者は、安売りをする小売りが諸悪の根源のように言うのだが、
それは違うだろう。
魚の値段を決めているのは小売りではなく、肉を巡る国際情勢である。
小売りは小売りで、与えられた条件の中で厳しい競争を繰り広げている。

ただ、競争の結果のひずみが弱いところに集中している現状はある。
獲った魚を並べて、「値段はそっちでつけてくれ」というスタンスの漁業者が最も弱い。
漁業者もブランド化などの努力をしているが、
現在のように生産現場と消費者が分断された状態では限界があるだろう。

食の安全はどのようにして失われたか

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赤福、不二家、雪印、ミートホープなどの事件によって、
食の安全に対する信頼が揺らいでいる。
生産者サイドは消費者の信頼を取り戻そうと必死になっているが無理だろう。
パンドラの箱は空いてしまったので、知らないで安心という状態には戻れない。

ミートホープの偽装肉事件では、
経営者は「半額セールで(冷凍食品を)喜んで買う消費者にも問題がある」と逆ギレし、
「この値段でまともな肉を出せるわけ無い」といなおった。
これに対して、他の食品生産者はミートホープにおおむね同情的だった。
「ミートホープがやったことは許されることではないが、気持ちはわかる」
明日は我が身、他人ごとではないのだろう。

一方、消費者にとってそんなことは寝耳に水だ。
「表示を信じて、安心して買っていたのに、、、」となる。
店に並んでいるものは、最低限の安全水準をクリアしていると疑わない。
だから、値札だけ見て、安心しきって買っていたのである。
消費者にとっては、ミートホープのような偽装は、背信行為に見えるだろう。
ただ、食品業界をそういう方向に導いたのは責任の一端は消費者にもある。

消費者の選択基準が、見た目と値段しかないなら、
それ以外の要素は極力排除されるのは当然のことである。
食料生産の現場は「見た目を維持しながらコストダウンをする」という競争に晒されている。
まず、大手スーパーなどの小売りが値段を決める。
値段は上がらないが、経費は上がっていくなかで、
損失は生産、加工、流通が飲むことになる。
ギリギリもしくは限界を超えたようなコストを要求されている食料生産の現場から、
見た目と値段に影響を与えない要素が失われていく。
添加物による見た目のごまかしは、もちろんのこと、
安全基準に抵触するようなコストダウンの誘惑もあるだろう。
このような背景があれば、ミートホープへの生産者サイドの同情的な態度はよくわかる。
「いけないことだというのはわかるが、そうでもしないとやっていけない」
食料生産の現場は、そこまで追い込まれているのだ。

食料生産と消費者の関係は、悪循環である。
思考停止して、安全を信じる消費者は、容赦なく買いたたく。
小売りが間にはいることで、一方的に値段をつけられてしまう。
生産者サイドは、無理難題を押しつけられても、飲まざるを得ない。
生産者サイドの悲鳴は、消費者には届かない。
ギリギリまでコストを削減した結果として、安全性や味が失われていく。
卵、牛乳、肉、野菜、魚など、本来の味がしない食材があふれている。

コスト削減の結果、不正ぎりぎりのところまで追い詰められる生産者、
安かろう悪かろうといった食べ物を知らずのうちに食べさせられる消費者、
この両者にとって、不幸な事態である。
食料生産の現場と、消費者が切り離されている限り、この悪循環は続くだろう。
いずれ、そういう食品しか製造できなくなっていくだろう。

食の安全が砂上の楼閣であることは、想像力を働かせればわかるはずだ。
外食産業で働いている人間の多くは「この店でだけは食べたくない」という感想を持つ。
内情を知ったら食欲が無くなるような店が少なくないのだ。
消費者と距離が近い外食産業だって、壁一枚隔てればこんな感じなのだから、
消費者との距離が更に遠い製造、加工、流通がどうなっているかは推して知るべしだ。

ぼろが出たところを「例外」と切り捨てて、
社会的制裁といわんばかりにバッシングしても、問題は何一つ解決しない。
食の安全が失われている現状を変えない限り、幾ら安全宣言をしても無駄だろう。
消費者はいくらなんでもそこまでバカではないし、情報を隠すにも限界がある。

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