2026年2月20日、水産政策審議会資源管理分科会は、令和8管理年度のスルメイカのTACを6万8,400トンとする水産庁案を承認した。
水 産 政 策 審 議 会 資 源 管 理 分 科 会 第143回 議 事 録
これは、単に漁獲枠が増えたという問題ではない。2018年の漁業法改正以降、水産庁が掲げてきた「科学的根拠に基づく資源管理」が、漁業関係者の納得を理由に後退した事例である。
審議会では、委員から科学的妥当性に明確な疑義が示され、水産庁もリスク評価が不十分だったことを実質的に認めた。それにもかかわらず、分科会長は「1年限りの暫定措置」であることを理由に、原案をそのまま承認させた。
科学機関のABCとは別の数字を持ち込んだ
水産研究・教育機構が従来のMSYに基づく方法で算定した2026年のABCは、冬季発生系群4万4,000トン、秋季発生系群8,000トンの合計5万2,000トンであった。
これに対し、水産庁はカナダマツイカに対する「米国の管理方式」と称する別の計算方法を導入した。過去最高漁獲量に、直近3年間の平均資源量と過去最高漁獲年の資源量の比率を掛ける方式であり、これを基礎にTACを6万8,400トンとした。
この方式は、親魚量と加入量の関係や将来の資源変動を予測する従来の方法とは異なる。水産庁自身も、ステークホルダー会合で「再生産関係に基づく将来予測に依拠しない」と説明している。
つまり、科学機関が算定したABCを採用せず、将来予測に基づかない別の数字を政策判断で持ち込んだのである。
理由は「関係者の理解が得られない」
審議会で資源管理部長は、従来の将来予測について「失敗の積み上げ」だったと述べ、同じ方式を続けても「恐らく皆さんの理解は得られない」と説明した。今回の判断では、関係者に「信頼してもらえる」ことを重視したとも述べている。
この説明は重大である。
資源評価に不確実性があることは否定できない。しかし、予測が外れたことは、リスク評価のない別方式へ置き換える理由にはならない。
本来必要なのは、予測誤差の原因を検証し、不確実性を織り込んだ管理へ改善することである。予測が難しいのであれば、予防原則に従って、より保守的な漁獲量を選ぶべきである。
ところが水産庁は、漁業関係者の理解を得にくいという理由で、科学的に評価されたABCを退け、資源への安全性を検証していない数字を採用した。
科学的上限が合意形成を拘束するのではなく、合意を得やすい数字を出すために計算方法を選んだのである。
委員がリスク評価の欠如を指摘
津田特別委員は、スルメイカ資源が過去10年、20年で大きく減少しており、資源回復を最優先すべきだと指摘した。
そのうえで、今回の方式について、これまでMSYと将来予測に基づいて資源回復を検討してきたにもかかわらず、「全くそういうリスク分析もされていないもの」を突然持ち込むことは理解できないと批判した。
また、6万8,400トンは、2020年以降の最大漁獲量である約3万6,000トンのほぼ2倍であり、なぜこの数量が安全なのか分からないと疑義を示した。
これは細部の問題ではない。TACを設定する際に最も重要なのは、その漁獲量で資源を維持・回復できる確率である。その評価がなければ、科学的なABCとは呼べない。
水産庁は不備を否定できなかった
水産庁は、米国のカナダマツイカでは、トロール調査とリスク・ポリシーに基づき、過剰漁獲の危険が小さいことを確認したうえでABCを設定していると説明した。過去記事で示したとおり、米国は水産庁が示した計算式を用いていない。リスク評価をもとに漁獲枠を控えめに設定しているのだ。
一方、日本のスルメイカについて同様の評価を行ったという説明はなかった。水産庁は委員の指摘を「重く受け止める」とし、リスク・ポリシーは令和9管理年度に向けて検討すると回答した。
これは、今回の6万8,400トンについて、資源悪化のリスクを事前に十分評価していなかったことを実質的に認めたものである。
さらに資源管理部長は、この方式を4年前にも検討したが、3年、5年と継続して使う方式としては「駄目」と判断して採用しなかったと明らかにした。それでも今回は、1年間の暫定措置なら使えると判断したという。
長期的に不適切な方式が、なぜ1年間なら安全なのか。その科学的説明はなかった。
「今年限り」を理由に承認
議論の最後に山川分科会長は、「いろいろと課題はある」と認めた。そのうえで、今回の方式は「1年限りの暫定的な措置」であり、翌年度以降の対応は今後検討するという前提で、原案どおりの承認を諮った。
審議会は異議なく承認した。
しかし、問題となったのは将来検討すればよい細部ではない。資源へのリスクが評価されていないという、TAC設定の根幹に関わる問題である。
しかも、スルメイカは寿命が約1年の単年性資源である。1年間であっても、不適切な漁獲圧が資源に大きな影響を与える可能性がある。
本来なら原案を差し戻すか、少なくとも科学機関が算定した5万2,000トン以下に修正すべきだった。
ところが分科会長は、「今年限り」を慎重な判断の理由ではなく、問題のある案を通す理由として用いた。
暫定措置は、不確実性が大きいときに安全側の判断をするためのものである。それが今回は、安全性を確認していない漁獲枠を実施するための免責理由に使われた。
議事録は漁期開始後に公開
スルメイカの令和8管理年度は、2026年4月1日に始まった。しかし、2月20日の審議会の議事録が公開されたのは6月23日であった。
したがって、TACの運用が始まった時点で、国民は次の事実を確認できなかった。
委員がリスク評価の欠如を指摘していたこと。水産庁が同様の評価を行っていなかったこと。長期使用には不適切と判断した方式を採用したこと。そして、分科会長が「1年限り」を理由に原案を承認したことである。
議事録が公表された時点では、問題のあるTACによる管理はすでに始まっていた。
これでは情報公開は、意思決定を検証するための仕組みではなく、決定済みの政策を事後的に記録するだけのものになる。
ABCは交渉で決める数字ではない
ABCは、漁業者が納得できる漁獲量を示す数字ではない。資源を持続的に利用するために、科学的に許容できる漁獲量の上限を示すものである。
漁業経営、地域社会、雇用、操業実態への配慮は必要である。しかし、それらの調整は、科学的上限の範囲内で行わなければならない。
ABCの役割は、科学的判断と政策判断を分けることにある。
資源評価機関は、資源量、再生産関係、漁獲死亡率、将来予測、不確実性に基づいて、許容できる漁獲量を示す。行政はその範囲内で、配分、経営支援、休漁、減船、補償などを決める。
この順序を守ることで、短期的な利害や政治的圧力が資源の持続可能性を損なうことを防ぐ。
ところが今回は、科学的上限を先に定め、その範囲内で合意を形成するのではなく、関係者が受け入れやすい数字を探し、その数字を導く計算方法を選んだ。
漁業経営に必要な漁獲量と、資源が許容できる漁獲量が一致しないことはある。その場合に政策が行うべきなのは、ABCを引き上げることではなく、経営支援や構造改革によって調整することである。
水産庁は、漁業者の納得を理由に、リスク評価のない数字をABCへ混入させた。米国では全く異なる予防原則に基づく管理が行われているにもかかわらず、あたかも米国で採用されている方式と誤認させるような「米国方式」という名前をつけて、科学を装ったのである。資源評価は、政策を拘束する基準ではなく、行政が都合に応じて採用したり退けたりする参考資料に過ぎない。これはもう科学的な管理とは呼べない。
不確実性は枠を増やす理由にならない
水産庁は、従来の将来予測が外れてきたことを、新しい方式を採用する理由に挙げた。
しかし、予測に不確実性があることは、予測を無視してよい理由ではない。まして、科学機関が算定したABCを上回る漁獲枠を設定する根拠にはならない。
予防原則に立てば、不確実性が大きいほど、より保守的な漁獲量を採用するのが基本である。予測精度が低いなら、安全側に余裕を持たせ、漁獲圧を抑える必要がある。米国はイカの将来予測が難しいことから、予防的に少ない漁獲枠設定をしている。
今回、水産庁が行ったのはその逆である。
従来の予測は信頼できないとして退けながら、将来の資源への影響を評価していない方式を採用し、5万2,000トンを上回る6万8,400トンを設定した。不確実性を安全側に処理するのではなく、漁獲枠を増やす方向に利用したのである。
不確実性は、管理を緩める理由ではない。慎重な管理を求める理由である。
科学的管理を自ら脇に置いた
科学的資源管理とは、科学者が計算に参加することではない。科学的に評価された上限が、行政や業界の都合を拘束することである。
その拘束を「関係者の納得」を理由に外せば、管理は科学的ではなくなる。
今回、行政は合意を得やすい数量を求め、その数量を正当化するために計算方法を選んだ。審議会も問題を認識しながら、「今年限り」を理由に追認した。
水産庁は、科学的管理に失敗したのではない。
科学的管理を自ら脇に置き、関係者の納得を優先したのである。
スルメイカの問題は、一魚種のTAC設定にとどまらない。日本の資源管理において、科学が政策を拘束する原則なのか、それとも行政が都合に応じて選ぶ説明材料にすぎないのか。その境界が崩れ始めたことを示している。