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蟹工船の未来
蟹工船は、企業による労働者の搾取を描いた小説である。すでに著作権が切れているので、青空文庫で読むことができる。大学の生協でも平積みになっていたので、かなり売れているのだろう。蟹工船は、劣悪な条件で酷使される蟹工船の漁業者が、ロシア人の入れ知恵でサボ(ストライキ)を断行する、という話だ。テンポの良い独特な文体で、労働者から搾取する企業・国家権力を風刺している。さくっと読めるので、まだ読んでいない人は、是非。
戦後の日本の沿岸漁業は、小林多喜二の理想を具現化したようなものだ。排他的漁業権を持つ漁業者組合が、沿岸の絶対的な支配権を持っている。水産系の大企業は、過剰な漁業者を抱える沿岸ではなく、外海へと広がっていった。結果として、日本沿岸から企業的漁業は姿を消して、今日に至っている。
沿岸からは企業を排除した。漁業者は海に出ないでストをしている。小林が、今の沿岸漁業を見たら、「これぞ、理想の社会」と泣いて喜ぶかもしれない。では、労働者は豊かになったのかというと、そうではない。漁業者は再生産も出来ずに減少しているし、養殖業者は原価割れのただ働きだ。企業を排除して、個人営業のみになれば、みんなが幸せになるわけではない。そのことは、日本の沿岸漁業の歴史が証明している。
漁業が地域の基幹産業として機能するには次の2つの条件が必要である。
条件1)漁業で安定的な収益を得る
条件2)利益が関係者・地域にきちんと還元される
蟹工船の場合、漁業の利益は労働者に還元されなかった。資本家の搾取によって、条件2が満たされていなかったのである。このような不平等は許されるものではない。リスクを負っている労働者に、きちんとした対価が支払われるべきだ。一方、企業を排除した日本の沿岸漁業からは、経営の合理性が失われてしまった。互いに競争関係にある個人が、過剰競争によって、有限な再生資源を食いつぶす、「共有地の悲劇」の見本のような状態になっている。こちらは条件1が満たされていないのである。そもそも利益がなければ、搾取されようがない。逆に、漁業者の方が、「俺たちが魚を獲らないと困るだろ」と声高に主張して、補助金をゲットしている。
資本家の搾取が諸悪の根源であり、企業をなくせば問題が解決するわけではない。個人は善で、企業は悪というような、単純な二元論を脱却し、条件1と条件2を両立できるような漁業の形態を、企業・個人を問わずに模索していく必要がある。企業であれば条件2をどのように確保するか、個人であれば条件1をどのように確保するかが、課題だろう。
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個人に任せたら漁業が衰退したでござるの巻き
- 2009-06-12 (金)
- その他
沖合・沿岸を問わず、日本の漁業は、魚の奪い合いである。獲らなければ話にならないのだから、限られた予算は、競争のために投資することになる。ライバルよりも早く獲るために、エンジンを大きくし、魚群探知機やソナーに投資をする。たとえば、ソナーがある船とそうでない船が、競争をしたら、全く勝負にならない。誰かがソナーを導入すると、他の人間もそれに追従せざるを得なくなる。投資ができなくなった船から、早獲り競争に敗れて去っていく。この乱獲レースに、真の勝者は存在しない。新しい装備をいち早く導入した船が、リードを保てるのは、他の船が追従するまでのほんの一瞬だ。皆が新しい装備を導入して、漁業全体の漁獲能力が向上したところで、魚がいないのだから全体の利益は増えない。
自然の生産力が限られている以上、全体の利益を増やすには、魚の質を高める以外の方法はない。しかし、今の漁業には、獲れるかどうかわからない魚の価値を上げるための設備に投資するゆとりはない。少なくなった魚を探すための装備は急速に広まる一方で、魚の質を保つための冷凍設備などは貧弱なままである。結果として、産業は衰退し、借金だけが増えていくことになる。互いに競争関係にある個人が、過剰競争によって、有限な再生資源を食いつぶす、「共有地の悲劇」の見本のような状態になっている。
日本の沿岸は漁業組合が排他的な独裁権を持っており、企業を閉め出してきた。その結果が、この有様である。組合に独裁権を与えるだけでは、漁業の合理化にはつながらないことは、漁業の現状を見れば明らかだ。少しでも全体最適化という視点があれば、今のようになるはずがない。もし、企業が漁場を占有しているなら、明らかに過剰な船を出漁させないだろう。また、明らかに過剰な漁獲設備ではなく、質の向上のために投資をするだろう。企業にまかせた方が、よほど、マシだったのではないだろうか。
今の日本のシステムでは、早取り競争に明け暮れる個人経営漁業者が、事後処理の不十分な魚を不安定に供給することしかできない。今のやり方では、遠からず自滅するだろう。今の組合をベースとした地域漁業が生き残るには、企業が果たすべき役割を、組合が果たす必要がある。無駄な競争を抑制し、魚の質を高めて、コミュニティー全体の利益を増やす。そういう方向に、漁業者をまとめていければ、組合ベースの漁業でも十分にやっていける。日本にもそういう組合は、いくつか実在する。組合が企業の役割を補完すれば、日本でもちゃんと利益は出るし、世代交代もちゃんとできている。ただ、そこまで力のある組合は、例外中の例外であり、全国でも数えるぐらいしか無いのが現状だ。残念なことに、ほとんどの漁業者・組合は、現状の非効率的な漁業を延命することしか頭にない。全漁連からして、御用学者を使って、産業として成り立っていない現状を正当化しているようでは、先は見えている。
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ユニクロカレンダー
- 2009-06-11 (木)
- その他
すごくよくできているね。
ぱらぱら漫画のように、人や車が動いていて、おもしろい。おもちゃみたい。
写真の良さとビデオの良さを併せ持つ、秀逸なコンテンツだとおもった。
クリックすると、大画面で見られます。
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こちら石巻さかな記者奮闘記
この本はなかなかおもしろかった。朝日新聞の経済部の記者が、定年後に石巻支局に赴任し、漁業について書いた本。しっかりと現場の取材をしているし、素人(一般人)目線でかかれているのが良い。一線で活躍してきた新聞記者だけに、現場を伝える能力は抜群だ。この本は、漁業に対して好意的なんだけど、漁業ヨイショ一辺倒ではない。筆者の漁業に対する問題意識を、宴曲に表現している。書くことと、書かないことの区別、そして、書く部分の表現の選び方は絶妙だ。このあたりは、ベテラン新聞記者の技だね。
第二章のメロウド(イカナゴ)漁のレポートは、実に秀逸だ。日本漁業の問題点が透けて見える。
出航してから約二時間、漁場に着いたのだろう。(中略)周りには何隻も同じように舳先から長い棒を突き出した船が見える。(中略)エンジンを切らないのは、カモメの動きからイケ(魚の群れ)を見つけたときに、僚船よりも早くイケに近づくためだ。(P38)
イケに向かうときは、周りの僚船との競争になる。早くイケに近づいた方が最初に網を入れることができるというのが漁師仲間の昔からのルールだそうで、イケを見つけて、早くイケに近づくのも船頭の腕と言うことになる。僚船と鉢合わせする機会が数回あったが、賢一さんはいつも最初だった。(P40)
石巻漁港で水揚げを終えたところで、水揚げだかを尋ねたら約12万円とのことだった。ここから燃料代などを差し引くと、手元にはそれほど残らない計算だ。(P41)
私が乗ったメロウド漁は好漁だったので、(P49)
この情報を総合すると、こうなる。
- 少ない魚群を大量の船で奪い合っている
- 早取り競争に勝つために、常にアイドリング→大量の燃油の浪費
- 好漁日に、成績上位の船ですら、利益が出ない
多すぎる漁業者が、少ない魚群を奪い合う。早取り競争に勝つために、船体に不釣り合いな馬力のエンジンを搭載し、一日中、アイドリングをして、群れを見つければ全速で走る。燃油を湯水のように使い、資源を枯渇させながら、利益が出ない。沿岸漁業の実像が、克明に描写されているではないか。俺が常々書いている通りなのだ。でも、この漁業はマシな方だと思うよ。
では、どうすればよいのだろう。多すぎる漁船を適正規模まで縮小するのが最善だが、それがままならない場合も多いだろう。現在の隻数を維持しながらでも、競争による無駄なコストを削減することはできる。この漁場に対する適正な隻数なんてたかがしれているのだから、ローテーションを組んで、適正な隻数だけ出漁するようにする。また、群れの奪い合いを防ぐために、全ての船の漁獲金額をプールして、均等に再配分するプール制も有効だ。やり方は、いくらでもある。
燃油高騰は、現在の非効率的な競争操業を改める絶好のチャンスだったはずだ。しかし、安易な補填によって、その芽はつまれてしまった。何も考えずに、皆で漁場に出かけて、我先に群れを奪い合っているうちは、産業としては成り立たないだろう。この状態を維持するために公的資金をつかっても、長い目で見て漁業者を救うことにはならない。
「第三章 漁業を考える」では、地域捕鯨と遠洋捕鯨の摩擦、燃油問題など、日本漁業の問題について整理している。昨年暮れの東大のシンポジウムについてもふれている。議論のかみあわなさについて、率直な意見が書かれており、よく観察していると思った。
筆者は、思いやり予算をストレートに配るべきと言う立場である。水産庁が、燃油補填に対して、5人以上のグループ化を求めたことを、「結果的には使いづらい補助制度になった」と批判しているが、そうだろうか。個人の取り組みによる省エネには限界があるが、グループ化で無駄な競争を省けば、燃油は大幅に節約できる。公的資金を使う以上、無駄を省く努力をするのが当たり前である。補償金の要件として、グループ化を求めるのは、納税者に対する最低限の筋だとおもう。問題は、グループ化による操業合理化に全く向かっていないことだろう。
いろいろと書きたくなってしまうのは、ネタがよいからだろう。ただ、漁業という観点から書かれている、2章と3章は読み応え十分。ただ、4章と6章は、地方の話がとりとめもなくつづく。新聞社の地方支所の日常を垣間見ることが出来るが、漁業にはあまり関係がない。5章では魚の食べ方を説明しているのだが、俺的には目新しい情報はなかった。一般の読者にはこういうコーナーも必要だろう。
結論
読む価値がある本だった。当ブログ読者は、買って読むべし。文章が読みやすいので、さくっと読めるはずだ。消費者目線を維持しながら、漁業の現状がうまく記述されている。たった1年で、ここまで書けるのは、流石である。
石巻の漁業だけをいくら見ていても、漁業を発展させるための知恵は浮かんでこないかもしれない。石巻の現場を知った上で、海外の持続的に利益を出している漁業(たとえば、ノルウェー)を見れば、石巻にも使える知恵が数多く見つかるだろう。そういう情報を、地方に還元することこそ、地方魚記者の役目だと思う。国際的な視点と、経済的な視点をもつ、魚記者はまさに適任と言える。魚記者の今後の活躍に期待をしたい。
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漁業者が減っても、消費者は困らない
漁業関係者の多くは、「水産物の安定供給のために、赤字の漁業者を救済せよ」と主張している。
科学的にはじき出された許容量を上回る漁獲を、国が認める不可思議。当然、「乱獲を公認している」との批判があるが、水産庁は「TACをABCに沿って激減させると、漁業者は操業できず、倒産する。すると、水産物の安定供給が困難になる」という。
http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/suisan-oukoku/14119.html
これ、全くの嘘。むしろ赤字の漁業者を維持することは、水産物の安定供給にとって、マイナスでしかない。
まず、日本の漁業者は余っている。足りないのは魚だ。横浜国立大学の馬奈木准教授の試算によると、現状の漁獲量を維持するのに必要な漁業の規模は今の15%。要するに85%も過剰な漁船を保持しているのである。
漁業者多すぎ、魚がいない。というのは世界的に共通している。1989年にFAOは世界の漁獲能力は、現状の漁獲を維持するために必要な130%の水準であると推定した。また、Garcia and Newton (1997)は、世界の漁船規模を現状の53%に削減すべきであると試算をしている。世界中で、漁船も、漁業者も余りまくりなのだ。不足しているのは、魚や漁獲枠である。「日本近海に魚があふれるほどいるけれど、漁業者がいない」という事態は、まずあり得ない。もし、そのあり得ない事態になれば、暇をもてあましている漁船を海外からチャーターして、水揚げをさせれば良いのである。
たとえば、NZでは、ロシアや韓国漁船をチャーターして、自国で操業・水揚げをさせている。海外のチャーターは、日本漁船よりも圧倒的に安価である。韓国船は非常にマナーが悪いらしい。NZの操業違反の8割は韓国漁船だとか。一方、ロシア船は、操業規則も守り、魚の質も良いとのこと。日本の漁業者が絶滅をしても、ロシア船をチャーターすれば、水産物の安定供給は可能だし、その方が、魚の値段は下がって、質は上がる可能性が高い。
漁業者減ると、全漁連や、水産庁は、とても困る。我々、水産学の研究者も、存亡の危機だ。しかし、漁業者が減っても、消費者への悪影響はほとんど無い。それどころか、メリットが多いだろう。自国の漁船を維持するより、外国漁船を単年契約で利用する方が、資源が減少したときに、禁漁等の思い切った措置がとりやすくなる。結果として、資源の持続性が保たれ、水産物の安定供給に寄与する。繰り返すが、水産物安定供給の生命線は、漁獲努力量ではなく、資源なのだ。
安定供給を口実に、現状の過剰な漁業者による、過剰な漁獲を正当化するロジックがいかにデタラメかは自明である。水産庁だけでなく、組合も、漁業者も、御用学者も、みんな言っている。安定供給を口実に、業並みの手厚い保護を勝ち取ろうとしているが、実に浅はかである。漁業者が多すぎるから魚が減るという当たり前の事実に、納税者は遅かれ早かれ、気づくだろう。補助金依存度を高めたら最後、補助金なしには存続できない産業になってしまう。そして、補助金はいつまでも出せる国家財政ではない。補助金おねだり作戦のもたらす結果は、漁業の延命ではなく、確実な破滅なのだ。
日本漁業の生き残る路は、①生産性を高めて経済的に自立すること、②日本の漁業者に任せた方が、資源の持続的利用に寄与すると示すこと、の2点であろう。実際には、全く逆の方向に進んでいる。自給率ナイナイ詐欺で、非生産的な現状を肯定する。そして、「零細な漁民がいるから、資源管理はできません」などと開き直るのである。今のままでは、消費者から見捨てられるのは時間の問題だろう。俺としても、沿岸漁業が少しでも多く残ればよいと思っているが、このままではどこまでも淘汰が進むだろう。組合も、行政も、研究者も、漁業が自立した持続的な産業として発展していくのを助けるために全力を尽くすべきである。そのことが、長い目で見れば、漁業に寄生する我々が存続する唯一の道なのだ。
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政治力によって、漁業が弱体化するプロセス
政治力によって、日本の漁業が弱体化されていくプロセスをみてみよう。
全漁連は、非生産的な漁業の代弁者である。「漁業が儲からなくても良い理由」だとか、「儲からない漁業を助けなければならない理由」を並べて、補助金を勝ち取ることには熱心だ。その一方で、漁業自体の利益を増やすことには、関心がなさそうだ。うがった見方をすれば、漁師が魚を売った上前をはねても、大した額にはならない。漁業が儲かって自立をするより、儲からない漁業への補助金が増えた方が、組合は潤うのだろう。たとえば、漁業者は組合を通して、重油を買う。漁業者の重油には税金がかからないにもかかわらず、漁業者が組合から買う重油は、税金込みの市価よりも高いようである。http://www.nochuri.co.jp/report/pdf/n0805jo3.pdfの4ページを見ても、漁連の重油が割高であることがわかる。資源管理には消極的なの全漁連が、燃油補填にご執心だったのも、納得がいく話である。
ここに、漁協全体の収入の時系列がある。見事なまでに、本業は赤字垂れ流し。しかし、全体は黒字なのだ。
もう漁業に見切りをつけて、別の金づるで食ってるようにしか見えない。金づるの分類は、「その他収入」の「その他」であり、その内容は、明かされていない。銀行の利子とか言ってる人もいるけど、本当だろうか。最近の利子って、そんなに高いものなのかね。「本当は、砂利採取や、工事の補償金じゃないの?」とか、想像がふくらんでしょうがないです。憶測でいろいろ言われるのが嫌なら、内容を公開してもらいたい。
日本漁業に必要なのは、燃油補填ではなく、休漁補償
現在、日本の漁獲量は激減している主要因は、資源の減少である。魚がいないのだ。特に、高級魚、大型魚が減少し、質的な劣化も激しい。逆に、漁業者は余っている。横浜国立大学の馬奈木さんの試算によれば、現在の15%が適正な水準とのこと。妥当な数字だろう。
過剰漁獲が蔓延している日本の沿岸漁業に必要な政策は、燃油補填ではなく、休漁補償である。公的資金で赤字操業を維持する必要は全くない。赤字操業というのは、使った燃油の方が、捕れた魚よりも価値が高いわけだ。つまり、海に燃油をばらまいて、環境を破壊しているのと同じである。赤字操業を止めて、浮いた燃油の代金で魚を輸入すれば、資源は回復するし、消費者もより良い魚を安価に入手できた。2年ぐらい休漁すれば、平均的な魚体は大幅に増加するし、産卵親魚の底上げも期待できる。この場合のマイナスは、漁業者の収入が短期的に激減するぐらいなので、公的資金による直接補償もアリだろう。長期的に日本の漁業を元気にする方向に、政治力を発揮する組合なら、俺も応援したい。
実際には全く逆のことをやったのだ。全漁連は、漁業者を動員して、公的資金による燃油補填を勝ち取った。これは、税金をつかって、資源の枯渇を進めることに他ならない。たとえば、資源回復計画と称して、多額の公的資金が遣われている。http://www.jfa.maff.go.jp/sigen/kaifukukeikaku.html 資源回復のために休漁補償金が支払われている漁業まで燃油補填をするのはおかしな話である。車で言えば、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいる状態だ。せめて、こういう漁業だけでも、燃油補填ではなく、休漁補償を増やすのが、納税者に対する最低限の配慮だと思う。
全漁連が政治力で実現した燃油補填は、公的資金による乱獲維持でしかない。全漁連的には、公的補償によって重油の消費量が維持できれば、ホクホクだろうが、納税者にも、漁業という産業にも、長期的に見て不利益しかない。こういうことを繰り返していれば、どんな産業だって弱体化するだろう。
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非生産的なセクションを、政治力で温存するから、高齢化が進む
日本の社会では、非効率なセクションを整理・縮小することに、根強い反対がある。もちろん、非効率なセクションも残しつつ、全体が維持できればそれに越したことはない。しかし、多くの場合、それは無理な相談だ。再三度外視で、非生産的なセクションを温存しつづけるとどうなるかという答えが、今の日本漁業である。
沿岸漁村(漁協)は、大きく3つに分類できる。
1)漁業で、利益を出している
2)漁業外収入で、利益を出している
3)まったく利益をだしていない
1)漁業で利益を出している漁村
こういう漁村は、後継者もいるし、コミュニティーにも活気がある。残念なことに、こういう漁業は、きわめて少ないのが現実である。日本漁業における若齢層の少なさからも、再生産できている漁業が例外であることがわかるだろう。地元で漁業希望の若者が順番待ちをしている場合も多く、よそ者はまず入れません。
2)漁業外収入で、利益を出している漁村
沿岸環境を切り売りし、補償金などで莫大な利益を得ている漁村も存在する。しかし、その数は、あまり多くない。漁業権が打ち出の小槌になるかどうかは、地理的な要因が大きい。漁業者につかみ金を払ってでも沿岸をいじりたい人間がいなければ、漁場を占有したところで、金にならない。
漁業権利権でウハウハな漁協は、新規加入をまず認めない。漁業以外の収入は、漁業者を増やしても、増えない。むしろ、一人一人の分け前は、減るからである。また、この手の組合は、ドル箱を占有したいので、何があっても合併に反対する。
3)利益を出していない漁村
実はこれが大多数を占めている。補助金については、某シンポジウムでもいじめられたんだが、農業と比べれば規模は格段に小さい。もともと漁業は輸出産業だったので、伝統的に少ないのです。まああの手この手でいろいろやっているみたいだけど、ほとんどの場合お小遣い程度だ。
これらの浜の漁師も、少ない魚を大勢で分け合うのは基本的に反対だ。また、新規加入者だって、生活が成り立ってないようなところにわざわざ入りたくない。子供は漁業以外の職につかせて、「捕れるだけ獲って、漁業は自分の代で終わり」という漁師が多いだろう。日本のほとんどの沿岸漁村では、順調に高齢化と少人数化が進行している。縮小再生産すらできずに、一直線に絶滅に向かっている、「限界漁村」は多数存在する。
漁業就職フェアは税金の無駄遣い
漁協が成り立つには最小の人数がある。この定員に達していない漁協がかなりあると見られている。すでにリタイアしているお年寄りの幽霊会員でなんとか定数を保っているところもある。生産性の低さは、漁業権による政治力でのりきれる。しかし、政治力の源泉である漁業権が維持できるかどうかは死活問題だ。そこで、頭数をそろえるために、外から人を呼ぼうと言うことになる。しかし、漁師の子供ですら逃げ出すような生産性の低い浜に、素人がノコノコと転職したところで、経営が成り立つわけがない。漁業者就職の補助金のたぐいはあるが、指導という名目で既存の漁業者に吸い取られる。既得権者は、漁協が維持できて、補助金もゲットできて、一挙両得だ。一方、新規加入者は、自己資金を食いつぶし、新規雇用の補助金がつきたところで、賞味期限切れでサヨウナラだろう。
不況で、一次産業への転職を考えている人も多いようだが、くれぐれも、計画的に、下調べをした上での転職をおすすめします。儲かっている漁業は基本的によそ者お断りだし、誰でも良いから(自己資金をもって)きてくださいという漁業は、産業として成り立っていない可能性が高い。漁業就職フェアのたぐいは山のようにあるが、新規参入は、実質的に閉ざされたままであり、漁業は着実に自滅の道を歩んでいる。
漁業関係者に言わせると、高齢化は一次産業をいやがる若者が悪いらしいのだが、俺にはそうは思えない。生産性が低くて、生活が成り立たないから、漁業に就職できないのである。非生産的なセクションを政治力で温存した結果、高齢化が進み、ますます入り口が狭まっている。この構図を変えるには、(3)の利益を出していない浜の非生産性を改善し、(1)を増やすしかない。日本の漁業政策は、公的資金をばらまいて、非生産的な漁業を非生産的なまま温存しようとしているから、どこまでも衰退が続くのである。
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漁業と終身雇用制度の類似点 その1
終身雇用制度は、一部上場企業に特殊な制度であり、日本の労働人口のごく一部をカバーしているに過ぎない。しかし、それと同じ構図は、日本社会の多くの場所で目にすることができる。漁業の衰退メカニズムも、共通する部分が多い(と思う)。
簡単に漁業の歴史を振り返ってみよう。終戦直後から、沿岸の漁業者は過剰だった。終戦8年後の昭和33年の科学技術白書にはこのような記述がある。
漁業経営体の85%をしめる漁家は,沿岸漁業と一部の沖合漁業を営んでいる。昭和27年以来,12~13億貫のわが国総漁獲量のなかで,沿岸漁業は,おおむね50%を占めてはいるが,戦前から沿岸漁業の漁獲量は相対的に減少の一途をたどってきている。零細漁家の生活は,ますます悲惨なものになりつつある。
昭和37年の科学技術白書には次のような図がある。
終戦直後から、沿岸の漁業者は過剰で、漁獲量は着実に減少していたのである。この過剰な漁業者を解消できないまま、今に至っている。昨年度の漁獲量は、当時の約半分の120万トンまで落ち込んでいる。
沿岸漁業者の職の流動性は極めて低い
漁業者は、その特定の漁業でしか通用しない技能をもった職人である。また、多くの沿岸漁業者は、その土地と強く結びついている。彼らは、「オラが村が世界で一番」と思っており、よその土地に移るなど、考えたくもないだろう。沿岸漁業者は、技能と土地に固定されている。転職をするという選択肢も無ければ、引っ越しをするという選択肢もない。沿岸漁業者の職の流動性は、サラリーマンよりも格段に低い。漁場の生産性がどれだけ落ちてきたとしても、日本の漁業者には、そこで漁業を続ける以外の選択肢が無かった。
過剰な漁業者が、衰退する漁場にしがみついた結果、漁業への新規加入が閉ざされた。下の図は、日本の漁業者の年齢分布を示したものである。まず、15-24歳の新規加入が減少している。1980年代には、新規加入がほぼ途絶えた状態である。そして、漁業者の平均年齢が毎年1歳ずつ上昇していくという末期的な状況が続いている。
1970年から、2001年に漁業者は3分の1に減ったが、60歳以上の漁業者の数は2割も増えている。漁業は重労働であり、経済原理が働いたなら、若者が勝つ。では、なぜ、高齢者が椅子に座り続けられるのかというと、漁業権という特権をもっているからだ。
漁業権をおさえておけば、漁業者としての地位は安泰
漁業権は排他的に漁業を営む権利であり、漁業共同組合が管理している。組合は、参入自由の法則が原則であり、特別な理由がない限り、希望者を拒めないことになっている。これは建前であり、実際には組合員の胸先三寸で、新規加入を排除できる。消費者が国産魚を必要とする限り、漁業権という特権をもった漁業者は、失業する心配がないのである。漁業権(組合)にしがみついていれば、漁業者としての地位は保たれる。会社にしがみついていれば、ポストが維持される終身雇用制度と非常に近い状態である。定年があるサラリーマンよりも、定年のない漁業者の方が、終身雇用といえるかもしれない。
去年、全漁連が動員をかけて、燃油補填デモをした。なぜ、漁業者だけが大規模なデモができるかというと、排他的漁業権のおかげでライバルがいないからだ。自分たちがデモをしている間に、魚を捕る人間がいないことがわかっているから、漁業者は安心してデモができたのである。運輸業の方が厳しかったはずだが、彼らは歯を食いしばって、頑張った。クロネコがデモをすれば佐川に客を取られるし、その逆もしかりだから、暢気にデモをしているどころでは無かったのだろう。
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不況に弱い日本漁業と、不況に強いノルウェー漁業
こちらにて、私のブログの記事を引用していただいているようだ。
勝川氏は書きます。「(ノルウェーの)労働者の流動性は高く、OECD諸国でも失業率は最低レベルであり、長期失業者も少ない。社会構造として、漁業を離 れても生活の不安が少ないのだ。」これはどうでしょうか?ノルウェーの失業率は確かに低いですが(3.1%),日本も長い間、同程度の水準でした。このと ころ上昇して4.4%にまで上がりましたが、100人あたり失業者が3人というのと4.5人というのは、漁業就労者について考える場合に有意な差とは言え ないと思います。(失業率が15.5%のスペインや11.2%のベルギーならば・・・。)
漁業のみならず、日本社会全体に重要なテーマだとおもうので、少し詳しく説明しよう。日本とノルウェーの失業率が同じぐらいでも、中身が全然違う。日本は、一度座った椅子にしがみつくことで、失業率を下げているのに対し、ノルウェーは、新しい椅子に異動しやすくして、失業率を下げている。
この違いを簡単なモデルで説明しよう。時代が変わると、会社の中で、不要になるポスト(赤)と、新しく必要になるポスト(青)ができるとする。不要なポストに人をつけておくと、コストがかかるし、必要なポストに人がいないとビジネスチャンスを失う。どちらも組織にとってマイナスだ。
日本型組織の自己改変
日本組織が外的な変化にどのように適応してきたかというと、不要なポストの人間を窓際として維持した上で、必要なポストには新卒をあてがうことで、不要人員のクビを切ることなく、組織改編をしてきた。窓際のコストを、ほかの人間の労働力で補填することになるので、組織には無駄が出るけれど、路頭に迷う心配が無いので、労働者が安心して働けるというメリットがある。効率の面で最適ではないかもしれないが、それなりに悪くないシステムといえるだろう。ただ、この方法では、必要なポストの数だけ、新卒を採る必要がある。このシステムには、大きな問題がある。このシステムが機能するのは、組織が持続的に成長している場合のみであり、一度、組織の成長が止まると、このシステムは硬直化し、自滅に向かうのだ。
縮小局面では日本型組織は硬直化する
日本型組織は、不況になると新卒の採用を控える。ビジネスチャンスを失うばかりか、体力の落ちた既存の組織(黄色・緑)で、不良債権化した窓際(赤)を維持しないといけない。ますます業績が悪化して、ますます新卒をとれなくなる。硬直化した組織の生産性は落ち続ける。椅子に座った人間の既得権を守るために、組織が死に向かう。中高年の高い給料を捻出するために、一人で何人分もの仕事を若者がこなしているような組織も珍しくはない。何人分もの仕事をしても、若者には、現在の中高年のような未来はあり得ない。なぜなら、若者を支える次の世代がいないからだ。また、組織がさらなる縮小を余儀なくされるときに、まず犠牲になるのは、中高年ではなく、若者だろう。
新陳代謝が低下し、生産性が下がる。するとますます、新陳代謝が低下するという悪循環に陥る。これが現在の日本の根本的な問題である。バブル期以降、多くの日本型組織が、このスパイラルをたどって、自滅の路を歩んでいるように見える。
社会の流動:再雇用制度
日本以外のほとんどの社会では、不要になったポストを整理し、必要なポストに、外から人を引っ張ってきます。ここでは仮に米国型と呼ぶことにする。この方法は、素早く組織改編ができるメリットがあるが、放り出された人間は(一時的に)失業者になります。失業者が増えると社会不安になり、結局は社会として大きな損失を被る。
組織内の流動性:多能工方式
終身雇用制度と再雇用制度の中間として、多能工方式というものもある。不要なポストの人間を必要なポストへと、組織内で配置転換しようという考えだ。トヨタが組織内で採用している。これなら、終身雇用を維持しつつ、ある程度柔軟に組織改編を行うことができる。ただ、この方法でも、自動車産業自体が不況になると、アウトになる。組織の椅子が減ってしまうと、どうにも対応ができない。
ノルウェーは、不要になったポストを維持するために無駄なコストを払わない。かといって、自己責任と切り捨てもしない。不要なセクターから、新しいセクターに、スムーズに異動するための、再教育やワークシェアリングに力を入れている。席を立った人間が、新しい椅子に座れるように、公的な投資をしているのだ。リストラされた人間を、自己責任と切り捨てるのではなく、彼らが新しい職を得て、生産性を発揮できるように社会がサポートをする。国を挙げて、多能工制度を導入しているようなものなので、特定の産業が構造的に縮小しても、他の成長している産業へと人を素早く異動させることで、時代の変化に適応して、社会全体の生産性を保つことができる。社会全体が生産的であれば、十分な椅子は確保できる。ノルウェーは、日本とは全く違うシステムで、時代の変化に柔軟に適応しながら、失業率を最低水準に維持している。
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from 18 Mar. 2009