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勝川俊雄公式サイト

日本の食は安すぎる

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日本の「食」は安すぎる―「無添加」で「日持ちする弁当」はあり得ない (講談社+α新書 390-1C)
山本 謙治
講談社
売り上げランキング: 1048
おすすめ度の平均: 3.0

1 だんだんむかついてくる
3 突っ込み不足の感
4 安いのはいいことですけど
5 勉強すべきは消費者であるという強いメッセージを認識すべし。

実に読み応えがあった。本書は、ありがちな告発本ではない。
生産者の視点から、日本の消費者が食材とつきあう方法を根本から問い直している。

まず最初に、ミートホープの問題から入り、食料生産者がおかれている厳しい状況について説明をする。

その後は、「日本の・・・は安すぎる」という章が続く。
それぞれの章は独立しており、似たような構成になっている。まず、前半部分で、安売り品がどのようにコストカットをし、その結果本来の味が失われたかを説明する。そして、後半部分では本来の味を大切にする良質な生産者を紹介する。良質な生産者の製品はかなり割高になるが、中身を考えれば適正な価格であるというのが筆者の主張だ。紹介される食品は、漬け物、豆腐、納豆伝統野菜、ネギ、牛肉、豚肉、ハム、卵、牛乳、ラーメン、ハンバーガー、山菜そば、椎茸、お酢と多岐にわたる。ここまで多くの農作物の生産現場を紹介できるのは、筆者の職業が農作物流コンサルタントだからだろう。普通の農家にはこの本は書けない。

最終章では消費者が行動を変えることの重要性を説いている。

筆者の主張を要約するとこんな感じ
生産者:自然な味の安全な食品を、コストに見合った適正な価格で販売する。
消費者:製造工程を理解した上で、適正価格を判断する
実に考えさせられる内容だったし、全体として賛同できる。

この本を読んでいて、農業と漁業の違いも実感した。自分の畑は自分の物だから、こだわり農産物を生産しても、顧客が着けば商売として成り立つ。一方、漁業は資源を共有しないといけない。IQ(個別漁獲量割り当て)のような資源管理を徹底しない限り、農業と同じ土俵にたてないのだ。

ウエカツ水産さまへのコメント

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ウエカツ水産:



to:勝川さま



各国の事例を紹介いただき,ありがとうございます。そしてノルウエーの事例を知り,驚きました。というより,まさにそれが,私どものここ4年間で歩んできた道であったらからです(おそらく)。乗るウエー行政の,当面の場当たり的な妥協ではない,将来を見据えた調整能力を感じます。

私には、世界の漁業は一つの方向に向かっているように見えます。境港も試行錯誤の末、同じ方向に行き着いたというのは実に興味深い事例です。

過日この場をお借りして境港ベニズワイ漁業が各船個別割り当てに至った経緯を紹介させていただきましたが,それに対する勝川さんのご指摘には,今後の取り組みに向けて多くを学ばせていただきました。



そして今回のエントリーで,あらためて,過去も現在も含め,日本の多くの資源管理施策が“青い果実”であることを,はっきり認識いたしました(むしろ前浜が村有・郷有であった時代の共産的資源管理の方に結果として合理性があったように思います)。

小規模な閉じた社会であれば、「前浜が村有・郷有であった時代の共産的資源管理」でも良いと思いますが、当時の漁業と今の漁業ではずいぶんと違います。大規模化・効率化した現在の漁業に適した管理システムを模索しないといけないのですが、日本ではその取り組みが遅れています。

ひとつでも多くの地域,ないし漁業が,このようなイメージをきっかけに,自分たち,ひいては国民にとっての糧を子々孫々持続的に資源を利用できる方法を,“日常の中で”考えるようになれば,そう悪いことにはならん感じがいたします。少なからず希望が湧いてきました。

日本国内で個別漁獲枠というのは、貴重な事例ですので、いろいろ教えていただき、感謝しております。今後も当事者の観点から、いろいろとご教授ください。ちゃんと資源管理をすれば、日本漁業は必ず復活します。

ところで,

『日本以外の先進漁業国はおおむね条件を満たしている。

先進国では、乱獲を放置していたら、国民が許さないから、

行政もしかりとした対応をとらざるを得ない。

科学的なアセスメントをしっかりやって、その結果に従うことで、

資源の持続的利用への説明責任を果たしている。』



とのことですが,先進国(?)で乱獲が行われていることを,どこがどのように国民に伝えているのでしょうか。教えていただけませんでしょうか。

このような国民視野に立った事実の報道や行政としての対応というものは公務として当然のことであり不可欠と思うものの,実質あまり伝わっていないと思うので。

欧米では、環境保護団体の政治力が強いです。環境への関心の高さ故に、漁業は常に強い圧力と非難にさらされています。環境への関心の高さの副作用として、センセーショナルに悲観的な研究がもてはやされたりもします。たとえば、Wormの「2048年漁業消滅説」は内容にかなり無理がありますが、世界中で話題になりました。資源管理が機能している事例もたくさんあるのに、ちょっと悲観的すぎるようにおもいます。

この状況を打開する鍵は、漁業者以外への説明責任を果たすことでしょう。ノルウェーの漁業者ミーティングには、環境保護団体の代表も参加します。有権者の関心も高いので、漁業者の都合のみで乱獲などできません。ノルウェーの行政官は、「社会的な関心が無くなれば、漁業は良くない方向に必ず向かう」と言って、情報公開の重要性を強調していました。国民全体への説明責任を心がけているからこそ、第三者から見ても、合理的な資源管理システムになるのでしょう。

また加えて,我が国では「資源評価」なるものを「科学的に」といって算出しておりますが(水産研究所が独立法人化したこともあってか)魚種によっては無理矢理はじきだしている感もあり,結果として,現場の我々がサカナを獲りつつもヤセ我慢すればなんとかやれそうだと感じていても,一方で調整不能な(つまりそれに忠実に従って資源管理を実行すればその漁業自体が死滅するような)数値が出されているように感じておりますが,あれが「科学的アセスメント」と言うものなのでしょうか。これでは仮に行政や研究者が説明責任を果たしたところで,何の意味があるのかと思う次第です。

「魚種によっては無理矢理はじきだしている」というのは、その通りだし、自覚もあります。本来、ABCの数字を出せない資源に対して、無理矢理数字を出しても、信用を失うだけです。科学的なアセスメントの限界に対する説明責任を果たすべきでしょう。

たとえば、私が関わっている北海道では、ロシアに分布の中心があり、日本沿岸への来遊量で日本の漁獲量が決まる資源があります。ロシア側の情報が無いのだから、ABCなど計算できるはずがありません。でもABCは計算しないといけない。困り果てた水研の担当者が「この資源は、ABCが推定不可能と書きたい」と提案したところ、水産庁サイドから「委託事業だから数字は出してください」という話がありました

「ABCが計算不可能な資源に関しては、管理のあり方を見直す必要がある」というのは、何年も前からある話なのです。ただ、なかなかそこまで手が回らないのが正直なところでしょう。今回のTAC制度の見直しで、ぜひ議論をしてもらいたいものです。私としては、スケトウダラのオホーツクや根室海峡はABCの計算対象から外すべきだと思います。もちろん、分布の中心がロシアにあるからといって、何をしても良いと言うことにはなりません。未成魚はとらないような工夫をしつつ、来遊したものを有効利用すればよいでしょう。

日本独自のエコラベルに値上げの噂が・・・

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日本版エコラベルが値上げをしたという噂をキャッチした。

まえは、「電車賃程度」という話だったのが、なんと100万円程度になるらしい。

もちろん、審査費用が100万でも、それだけ厳密な審査をするというなら問題はない。

しかし、厳密な審査で日本独自のエコラベルが運用されるとは、とうてい思えない。
エコラベルの本来の目的は「持続的な漁業を勝ち組にする」という差別化である。

護送船団の染みついた日本漁業界で、エコラベル本来の差別化の運用は難しいだろう。

申請者には基本的にシールを配るとしても、日本版エコラベルに100万円の価値は無い。

魚を輸出するなら、MSCが要求される時代になりつつある。
輸出を前提とした漁業なら、数百万の申請費用を負担しても、MSCをとることの経済的な見返りはある。
MSC認証を獲れる漁業はMSCを獲れば良いだけの話だし、

MSC認証をとれない漁業も認証するとなれば、MEL(J)自体が無視されるだけだ。
日本版エコラベルがMSCの代替として、国際的に認められる可能性は極めて低い。
輸出に関しては、日本独自のエコラベルは評価の対象外だろう。
一方、日本国内はどうかというと、消費者はそもそも持続性に関心がないので、

シールを張っても、経済的な見返りは無きに等しい。



輸出をするならMSCが必要であり、日本独自のエコラベルはMSCの代替にはならない。
また、輸出をしないなら認証自体が不要なのだから、
日本独自のエコラベルなど、そもそも必要ないと思う。
それでも「シール代1万円」とかなら洒落になるが、100万円はちょっと信じがたい。
本当に値上げをするのだろうか?
俺的にはガソリン代よりこっちが気になって仕方がないです。

先生、どこから先がシッポですか?

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1つ前の記事で首の漁業とシッポの漁業で、適している管理の方法が違うという話をしたので、
今日は「どこから、先がシッポなの?」という問題をつらつらと考えてみよう。

img08042310.png
上の図は1つ前のエントリーでも紹介したものだ。この図からわかるように、大規模な漁業はすでにTAC制度の対象となっている。TAC魚種の選定は実に妥当なのだ。まずは、TAC制度を厳格化した上で、IQ制度に移行する。それだけで、首の部分は基本的には押さえられるはずだ。その後に、TAC非対象魚種の中から重要なものを順次管理対象にしていけばよい。最初の候補は、カタクチ、ホッケ、ブリ、マダラ、イトヒキあたりだろうか。

上の図は漁獲量ベースだが、重要なのは漁獲量よりむしろ漁獲金額だ。本来であれば、「資源管理のコスト」と「資源管理による収益増加」をそれぞれの漁業に対して見積もったうえで、管理の適用範囲を決めるべきだ。ちゃんと計算すれば、かなり広い範囲の漁業が管理できる可能性が高い。たとえば、ニュージーランドは、受益者負担と言うことで、漁業者から資源管理を費用を徴収している。資源管理に税金をつかわないのだ。にもかかわらず、現在漁獲枠ベースで管理されているのが97魚種もある。それでも漁業は利益を出している。ニュージーランドに限らず、多くの国は、受益者負担で資源管理をして、漁業で利益を出している。一方、日本のTAC制度は全部税金であり、国民全体に負担を強いている。そして、TAC制度の対象はたったの8魚種。しかも、そのうち実効性があるのはサンマとスケトウダラの2種だけ。しかもサンマは出荷調整。これでは、資源管理の範囲が十分ではないのは明らかだろう。日本の公務員は優秀らしいので、本気を出せばNZに負けるようなことはないだろう。期待してますよ。

最終的には、現状で資源評価票を作成している魚種については、漁獲枠ベースの厳密な管理の対象と考えている。ただ、優先順位から行けば、守備範囲を増やすよりも、現行のTAC制度の厳密化・IQへの以降が先だ。また、国内で資源評価をできる人材は限られており、現在はほぼフル稼働状態である。人的リソースの問題で、資源評価票が作成されていない魚種に関しては、当面は無理。そこの部分は自主管理に任せるのが妥当だろう。

今日の記事は、規制改革会議の宿題にも大いに関連する。

資源管理の在り方の見直しについて
(イ)TAC(漁獲可能量)設定魚種の拡大【平成20 年中措置】
(エ)IQ(個別漁獲割当)制度の導入対象魚種の拡大及びITQ(譲渡可能個別漁獲割当)制度の検討【平成20 年中措置】

中の人も、いろいろ忙しいとは思いますが、このエントリーを参考にじっくりと検討してください。

自主管理2.0でロングテール漁業を狙え

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どうも俺は自主管理に否定的だと誤解されているようだが、そんなことはない。

今はあまり上手くいっていないけど、自主管理は大きな可能性を秘めていると思う。

ただ、それは短所と長所を理解した上で、適切な利用をすればの話だ。

ロングテールという概念をつかって、自主管理の適切な守備範囲について論じてみよう。

商品売り上げのグラフを、縦軸を販売数量、横軸を商品として販売数量順に並べるとこんな感じになる。少数のベストセラーが高い売り上げを上げる一方で、あまり売れない商品が恐竜の尻尾(テール)のように長く伸びる。

img08042311.png


従来のビジネスは恐竜の首の部分で利益を上げるのが基本である。 少数の稼ぎ頭がもうけの大部分をたたき出すので、上位20%の商品で80%の利益を出すような場合が多いだろう。一方、テールの部分は、陳列するコストに見合う利益が出ない。店にとっては扱うメリットがないのだ。ネックの部分で利益を出し、胴体の部分は多少赤字でも集客のために必要になる。テールの部分は、扱うほど利益が減るので、極力排除する。これが、従来のビジネスの常識だった。それを変えたのがインターネットだ。
アメリカの本のチェーン店は13万点の本を在庫している。それをさらに上回るのがアマゾンの230万点という圧倒的な商品数だ。アマゾンは、商品のページをウェブに作るだけなので、商品あたりのコストを極限まで切り詰めることができる。だから、ロングテールの先の先まで扱うことが可能なのだ。アマゾンは上位13万点に入っていない、しっぽの先から、売り上げの半分を上げているという記事がWiredに掲載されて、大きな話題になった。ちりも積もれば山となるのである。実際は売り上げの1/3らしいが、それでもロングテールというのが潜在的に大きな市場であることがわかる。

従来の書店では、在庫のコストがかかるので、ロングテールは採算がとれない。このロングテール部分から利益を出せるのがネットの強みであり、これらのネットの潜在的な可能性を総称してWeb2.0と言うらしい。 (以上、説明終わり)

日本の漁獲量を系群別に並べてみると次のようになる。実に典型的なロングテールだ。これは資源評価票に漁獲量の記述があったものを抜き出している。資源評価の対象になっているような主要な漁業でもすでにテールであり、日本全国津々浦々の漁業を並べればしっぽは無限に伸びていくだろう。
img08042310.png

首の漁業(広域分布種からなる大規模な漁業)

 大臣許可(中小企業)・複数の県にまたがる→合意形成の場がない

 顔が見えない、船の大きさ・漁具が違う→漁業者間の相互監視は期待できない

 漁業調整は難しいし、自主的な規制では実効性が低い



しっぽの漁業(沿岸の局所的な資源)

 少数の漁協が利用する沿岸漁業(家族経営)→漁村談合システムでの合意形成が可能

 顔が見える・船の大きさ漁具の多様性が少ない→漁業者間の相互監視が働く

 従来の資源管理型漁業でも実効性が確保できる

首の漁業はコストをかけて管理をしても、十分なリターンがあるので、しっかりとした枠組みで資源管理を行うべきだろう。一方、しっぽの漁業は、潜在的な利益が小さいので、下手をするとABCを計算するのに必要な調査費・人件費も出ない。資源管理をすると赤字になっては意味がないので、しっぽ漁業の管理にはコストが安い自主管理しかない。

この前の北洋シンポでは、俺がITQの話をして、松田さんは知床の自主管理の事例の話をした。松田さんに対するコメントで「勝川の話とは正反対だけど、自主管理が良いという松田さんに賛成」みたいなのがあった。それに対する松田さんのコメントは「自主管理はコストの面では有効だけど、万能ではないし、TACのオルタナティブではない」という感じだった。俺も全く同じ意見。トップダウンかボトムアップかという二元論で考えると俺と松田さんの講演は正反対に見えるかもしれないが、ネックの部分に着目するか、テールの部分に着目するかの違いにすぎない。松田さんと俺とは、「資源管理は適材適所」という点で一致していると思うし、その中身に対してもそれほど差がないんじゃないかな。



以上が、北洋さんのコメントへの俺の回答です。

この場を借りて、

私の「沿岸」と「沖合」の経営の性質の違いの理解を申し上げ、

階層毎に資源管理方法の設定が必要であるのではないか、という問題提起をさせて頂きます。

「沖合」用、「沿岸」用の資源管理を模索し、互いに「共存」できる環境を作っていく必要があると考えます。

http://kaiseki.ori.u-tokyo.ac.jp/~katukawa/blog/2008/03/post_306.html

日本の漁業政策は世界から30年遅れている

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日本の資源管理は、単なる漁業調整に過ぎない。
「人間様が困るから、獲りたいだけ獲らせよう」というのは、そもそも資源管理の発想ではない。
ほとんどの場合、漁業調整では資源は守れないので、結局は漁業者が後で困る。



ただ、これは日本独自の事情ではない。

1970年代には、世界のどこでも似たり寄ったりの状態だった。

世界中で漁業調整に終始していたが、それではだめだということで、

時間をかけて、資源管理に変化したのである。



世界の資源管理の歴史を振り返ってみると、

1950年代にはMSY(Maximum Susutanable Yield)の理論は完成していた。

これは、持続性と最大収益を同時に成り立たせようという理論だった。

しかし、MSY理論は、現実にはほとんど実行に移されなかった。
不確実な科学よりも、漁業者の都合が優先されたのだ。

不確実性を理由に、過剰な漁獲枠が設定され、

不確実性があるが故に研究者も強くは出なかった。

MSYの推定値には大きな幅があるのが普通だが、常に上の方が採用されたのだ。

95%点を取るというのは、上手くいく可能性が1/20である。

95%の確率で失敗するのは、ばくちであって管理ではない。

不確実性を口実に、漁業者の都合を優先させ、

管理とは名ばかりの甘い漁獲枠が設定されていた。

世界中で、今の日本と同じようなことをやっていたのだ。

その結果が、いくつかの重要資源の崩壊である。

「このままでは駄目だ!」ということで、2つの大きな動きが生じた。



1)人間の都合と生物の持続性を切り離して議論すること

人間の切実な都合と、不確実な生物の持続性を同じ土俵で論じると、

人間の切実な都合に流されてしまう。

でも、そうすると、長い目で見て、産業が成り立たず、皆が困ることになる。

だから、人間の都合とは切り離して、生物の持続性を論じることにした。

生物の持続性の範囲で人間活動の最適化を図ることになった。



資源学の中心は、従来の生物の持続性と漁獲量の最適化を同時に狙うスタイルから、

より生物の持続性を優先する方向に動いたのだ。

従来の漁業最適化を目指す管理指標から、

生物の持続性のみにフォーカスした管理指標を区別するために、

「Biological Reference Point (生物学的管理基準)」という概念が提唱された。

従来の最適漁獲量(Optimal Yield)に代えて、ABC(Acceptabe Biological Catch)が

資源管理の前提条件として用いられるようになった。

人間の都合を無視して、生物としての持続性を定量化するというのが、ABCのBに込められた意味なのだ。

漁業者の都合を考慮したABCなんて、ABCの存在自体を否定するような暴挙なわけ。

「ABCにもいろいろな定義がある」とか主張する人間もいるが、単なる勉強不足だろう。

漁業者の都合を優先させるようなABCなど、そもそもの定義からしてあるはずがないのだ。



日本のABCは漁業者様の都合によって歪められまくりだ。
とてもABCなんて呼べる代物ではない。

AFC(Acceptable Fishiningindustrially Yield)とでも呼ぶのが妥当だろう。
そのAFCすら守れないのが日本のお寒い現状なのだ。



2)不確実性には保守的な行動をとること

もう一つの大きな変化は、不確実性に関する態度だ。

これが明確に文章にされたのがリオデジャネイロ宣言だろう。

「不確実性を理由に管理を怠ったり、遅延してはならない」と力強く宣言されている。

「不確実性がある場合は控えめに行動をする」というのが大前提である。
獲った魚は海に戻せないが、獲らなかった魚を後で獲ることはできるのだから、当たり前の話だ。

90年代以降、世界は、不確実性があっても、生物の持続性を優先するというルールの下で資源管理を進めてきた。

EUも、USも、カナダも、南米も、アフリカも、程度の差こそあれ、その方向に進んでいる。

完全に取り残されているのがアジア、特に東アジアは最悪だ。

「科学者の言うことは当てにならないから漁業者の都合が優先だ」と、
漁業大国&唯一の先進国である日本が率先して乱獲をしている。
中国や韓国を言い訳に自国の管理を怠っているようでは、お話にならない。


生物の持続性を優先し、不確実性に対して保守的な行動を取ることは、

結果として漁業利益に結びつくことが、世界の常識に成りつつある。

資源を良い状態に保っておけば、単価が高い魚を持続的に獲ることができる。

早めに厳しい措置を執っておけば、資源の枯渇を事前に防ぎ、

結果として漁獲量を高めに保つことになる。

資源管理を徹底している国ほど漁業から利益を上げているという事実がすべてを物語っている。



資源管理よりも漁業調整に終始するというのは、なにも日本の独自性ではない。

30年前は、どこも同じような状況だった。
ただ、世界はその段階をとっくに乗り越えて、次のステップに進んでいる。
世界の漁業関係者は持続性の範囲で利益を上げるために努力をしている。
日本は70年代以降の世界の流れから完全に取り残されている。

漁業が盛んな先進国の中では一人負けといってよいだろう。

不毛な乱獲促進政策しか採っていないのだから、当たり前だ。

未だに不確実性を錦の御旗にAFCを採用し続けているのは、日本ぐらいだろう。

この「学習能力の低さ」こそ、日本独自と言えるかもしれない。

水産庁の資源管理も漁業調整なんだよ

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議論を明確にするために、当ブログでは、次のように言葉の定義をする。

資源管理:資源の持続性の範囲で、漁業利益の最大化を図ること

漁業調整:漁業者の合意の範囲で、資源の持続的利用を目指すこと

資源管理も漁業調整も、資源の持続的な有効利用を目指すものの、

資源管理は資源の持続性を優先し、漁業調整は人間の都合を優先するという根本的な違いがある。



沿岸の自主管理における意志決定は、漁業関係者の利害調整の結果であり、
資源管理ではなく、漁業調整に分類できる。

実は、水産庁がトップダウンで行っている各種資源管理もこれと同じような状態にある(と思われる)。

水産庁の国内における重要な業務は、漁業調整(すなわち、漁業者間の対立の調停)であった。

その漁業調整を担当していた部署が、組織改編で「資源管理課」という名前になった。

看板を変えても、中身は変わっていないので、

管理課には漁業調整と資源管理の区別がついていない人間が多い。
特に年配は、漁業調整万能主義(=アンチ資源管理)が強く染みついている。

TAC制度が導入されるときも管理課を中心に根強い反対があり、TAC制度は徹底的に骨抜きにされた。

TAC制度は、国際社会に対してEEZの権利を主張するためのアリバイ工作(資源管理ごっこ)だと、

漁業者が理解していたことは、周知の事実であろう。
(水産庁自身がそう説明したのかな?)



管理課がTAC制度を骨抜きにしつつ、真打ちとして期待したのが「資源回復計画」である。

資源回復計画は、水産庁が補助金のニンジンをちらつかせながら、漁業調整を手伝うのが基本スタイル。
従来の資源管理型漁業の看板を変えただけだ。
管理課は、資源の持続性を最優先する資源管理ではなく、人間の都合を最優先する漁業調整を選んだ。

このことからも、資源管理課の本質は漁業調整課であることがよくわかる。

「漁業調整→自主管理→資源回復→漁業者もうれしいし、役所の手柄にもなる」

というようなバラ色の未来を描いていたようだが、結果は皆さんご存じの通り。

資源管理型漁業があんな状態なのに、なぜ同じ失敗を繰り返すのか理解に苦しむところだ。



全てが謎に包まれたTACの決定に関しても、だいたいは想像がつく。

ABCが無視されているのは自明だし、かといって、定量的な経済分析なんて大本営にできるはずがない。

消去法的に言って、TACも漁業調整の結果と考えるのが自然だろう。

TACは水産庁(特に管理課)に政治力を行使できる漁業者間の意見調整で決定されるのだろう。

ABCの担当者がいの一番に某組合にご意見を伺いに行くのが恒例だったりするのもよくわかる話だ。

中の人曰く「特定の漁業者に配慮しているということはない」ということなんだけど、本当かなぁ

俺には、沿岸が冷遇されているように見えてならないんだけど、どうなんでしょう。

ぜひ、説明責任を果たして、疑惑を払拭してもらいたいものです。

なんせ、非公開情報が多すぎて、妄想がふくらんで困ります。



ということで、日本には資源の持続性を優先する資源管理はありません。

上から下まで、人間の都合が全ての漁業調整なのでした。
日本の漁業界で、アンチ資源管理・漁業調整万能主義が強い勢力を持っているが、
その総本山は水産庁の資源管理課なのでした。

日本型の意志決定の長所と短所と限界

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日本型の意志決定の欠点は、方向性と実効性に欠けるということだ。「方向性の欠如→非合理的な努力→無駄な痛み」となりやすい。たとえば、多大な手間・暇・金を費やして種苗放流をしても、その効果が一切検証されていないような場合も多い。また、日本の資源管理型漁業の実効性は、漁業者の都合次第である。一般的に、日本の漁業には余裕は全くない。乱獲をしても採算がとれないような経営体が多い中で、自己満足的な全く不十分な取り組みで終わっている場合がほとんどだ。乱獲の度合いが多少軽減されたからといって、「管理している」とはいえないだろう。「やらないよりマシ」かもしれないが、それで満足していては話にならない。

では、管理を機能させるには、何が必要だろう。方向性を与えるのが研究者、実効性を与えるのがタイミングだと思う。成功事例に共通するのは、現場に根を下ろした研究者の存在である。非合理的になりやすい日本型意志決定に方向性を与える人間が必要なのだ。また、漁業者が努力できる範囲は一定ではなく、資源管理を始めやすいタイミングが明確に存在する。たとえば、秋田のハタハタは、資源が枯渇し、収入としてあまり期待できなくなった段階で管理が導入された。また、三河湾のイカナゴはマイワシバブルの時代に管理を開始した。対象となる資源に依存する度合いが少なくなったタイミングこそ、資源管理を開始するのに適しているのだ。こういったタイミングをとらえるには、その現場に長期的に接する人間が必要だ。たとえば、5年で水産系の職員を異動させる県もあるようだが、そういった県の職員がうまくタイミングをつかむのは困難だろう。

自主管理の成功には、資源管理の基礎を理解した上で漁業者と同じ目線で会話ができる人間を、長期的に常駐させる必要がある。これは、国にはできない。また、できていない県も多い。研究者ではなく、漁協の職員に資源管理普及員としての機能を期待するのも一つの方向だとおもう。どこの漁協も内部はガタガタで統廃合が続いている。資源管理に対して主体的な役割を果たすことで、漁協の必要性をアピールすれば、今後の生き残り有利になるだろう。

漁業者の相互監視は確かに有効な手段である。たとえば、京都府のズワイガニ管理では、禁漁区の効果を確認するため、県の職員が漁船をチャーターし禁漁区で定期的に試験操業をしている。ある時、連絡に不備があって、一部の漁業者に試験操業のことが伝わっていなかった。試験操業のことを知らない漁師から、試験操業をしていた漁師に、無線で「そこは禁漁区だろう」というつっこみが入ったという。こういう状況なら、行政がコストをかけて監視しなくてもよいだろう。ただ、自主管理の強制力の範囲は、顔が見える範囲に限られる。村社会の掟の適用範囲は、村社会に限られてしまうのだ。魚の分布が、いくつかの県をまたいでいることもよくある話である。また、大臣許可の沖合漁業の多くは会社経営であり、村社会の理論ではなく、中小企業の理論で動いている。自主管理がうまく機能するのは、利用者が限定された沿岸資源に限られるだろう。これは、漁業者の相互監視に頼る自主管理の構造的な限界である。

輸入小麦の値上げは、国内農家保護の結果なの?

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「食料危機」の本当の原因 from 池田信夫blog
農水省のホームページによれば、値上げ後の政府売渡価格は銘柄平均で69,120円/tである。この理由として、小麦価格が「本年2月には10ドル/ブッシェルを超えて史上最高値を更新するなど、政府買付価格は大幅に上昇している」と書かれているが、ブッシェルというのは約27kgだから、トンあたりに換算すると約37,000 円。政府は国際相場の2倍近い価格で売っていることになる。

国内農家の保護のため、輸入小麦から関税と上納金を取って国内農家に補填していることが、コストアップの原因だ。

つまり今回の政府売渡価格の値上げの原因は、「自給率」を高めるための農家保護の原資が不足したからなのだ。したがって小麦を安定して低価格で供給するのに必要なのは「食料安全保障政策」なんかではない。農業補助金を廃止して輸入を自由化すれば、小麦の価格は半分になる。

詳しい内容はリンク先を見てもらうとして、理屈としては、筋が通っています。

農水のページでは、国際価格はドル/ブッシェル、国内価格は円/トンと、違う単位で表現して、直接比較ができないようにしているのがポイントですね。

日本の意志決定とは何か?

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日本には独自の意志決定の伝統がある。伝統的な意志決定方法の特徴を理解するには、日本漁業の歴史を無視することはできない。60歳以上の漁業者に聞けば、日本の沿岸には今からでは考えられないほどの魚がいたことがわかる。魚を巡る競争が激化したのは、ここ数十年なのである。それまでは、魚よりもむしろ漁場や漁港を巡る争いであった。当時の漁具で効率的に魚が捕れる場所は限られていた。当時の船の動力では沿岸の漁場しか利用できなかった。当時の土木技術では、漁港として利用できる場所も限られていた。日本漁業が伝統的に直面していたのは、限られた漁場や漁港を誰が使うかという問題である。場所を巡る競争であれば、その場所を希望する当事者間の折り合いがつけば解決になる。

魚村の内部のことは、構成員全員で話し合う。複数の村にまたがることであれば、それぞれの村の代表同士が話し合う。最終的な決定権はコミュニティーのリーダーにあり、個人的な不満があっても、最終的には村の構成員代表の決定には従う。このような調停システムによって、利害を調整してきたという歴史がある。

沿岸漁業においては、資源管理の問題も、これと同じアプローチで処理された。皆で話し合って「できることをできる範囲でやる」というのが、資源管理型漁業の基本である。ことになる。日本以外の国ではどうかというと、管理には必ず目的がある。MSYにせよ、持続的利用にせよ、何らかの目標を設定し、その目標に到達できる方策を考える。複数の方策があれば、その中で何がベストかを選択することになる。前者を日本型意志決定、後者を合目的意志決定と名付けると、次のように図示できる。

20080417.png

日本型意志決定には、明確なゴールがない。進むべき方向性にできる範囲で進んでいくというアプローチだ。合目的な管理の枠組みを前提とした欧米人にはなかなか理解できないだろう。実際に、京都のズワイのMSC認証でも、このあたりの理解を得るのに時間がかかっているのだろう。

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