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スケトウダラ北部日本海系群のおもひ出 その2

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04年当時を振り返ると、全体的に危機感が無かったと思う。
本気でやばいと思っていたのは、魚種担当者と俺ぐらいだろう。
ほとんどの関係者は、漁業者が望むようなABCを出す事が自らの使命だと考えており、
「漁業者には生活がかかっているのに、
空気の読めない研究者が悲観的な数字を出してきて迷惑だ」という雰囲気だった。
俺が「この魚を捕るべきではない」といくら力説しても、
なんの反論もないまま、なし崩し的にABCが増えてしまった。
道の役人が「我々は漁業者の生活のためにTACを増やすよう働きかけます」とか
宣言していたのには、呆れかえってしまった。
この手のホワイトナイトたちが、「漁業者を救うため」にTACを水増していった。

漁業者のいうままにTACを増やしても、「漁業者を救う」ことにはならない。
このままでは、漁業者の生活が失われる可能性が濃厚なのだが、
その原因は、資源の持続性を蔑ろにして、過剰なTACを設定したせいである。
目先の利益を確保するために非持続的な漁獲を続けた漁業者と、
漁業者に言われるままにTACを増やした役人が、
資源をつぶし、漁業をつぶし、地域コミュニティーを破壊したのである。

北海道に限った話ではないが、漁業者は常に被害者意識が強い。
自分たちが利用した資源を、次世代にちゃんと残すのは漁業従事者の最低限の義務である。
その当然の義務を果たせと言われただけで、被害者面して大騒ぎをする。
自分たちは、理不尽な規制に苦しめられる哀れな存在だと声だかに主張し、
俺のような、いたいけな研究者を「漁業の敵」としてやり玉に挙げるのである。
たしかに、世界には、厳しい管理の犠牲となった漁業者が存在するのだが、
日本は資源管理に極めて消極的な国である。
国内に、資源管理が不必要に厳しすぎて漁業が滅びた事例など、無いだろう。
日本の場合は、乱獲で資源が枯渇した結果として、漁業が自滅しているのである。
自らの短期的な利益の代償として、共有財産の水産資源をつぶしたのだから、
漁業者は被害者ではなく、加害者である。

スケトウダラ北部日本海系群のおもひ出

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俺が北海道の資源評価に参戦したのは2004年、
期待されていた卓越年級群を未成熟のうちに獲りきっていたことが判明した年である。
水研担当者が出したabcは、業界には到底受け入れられない厳しい値だった。
abcの値を巡って、壮絶な戦いが繰り広げられた。

おれは、前年の評価票に目を通して、この資源は非常にやばいと直感した。
過去の資源崩壊の事例とかなり近いのだ。
産卵場の漁場が縮小しているが、中央部でしか獲れていない。
これは親魚の減少を示唆するものである。
縁辺部の産卵場の久遠は消滅、上の国は半減。
一方、産卵場中心の乙部ではそれなりに獲れている。
sukex01.png
「乙部で獲れているから、この資源は減ってない」というのが沿岸漁業者のより所であった。

しかし、産卵場の縁辺部が消失していくのは資源低下の典型的な症状なのだ。
繁殖を行う際には、ある程度の密度が必要になる。
そこで、資源が減少をしても、産卵場中央での密度は減少しない。
そのかわり、縁辺部での産卵が無くなるのである。
sukex02.png

実際に、ニューファンドランドのコッドでは、崩壊前年まで産卵場の中心では良く獲れた。
みんなが産卵場の中心に取りに行くから、量としてはそれなりに獲れてしまう。
だから、漁獲量だけ見ていると、資源の減少は把握できなかった。
産卵場を対象とする漁業で、資源の状態を把握するには、漁場の分布を見るべきなのである。
当時の資源評価はCPUEに全面的に依存していた。
スケトウダラの資源評価はニューファンドランドのコッドと似たような事をやっており、
資源状態はもっと酷い可能性が高い(ふたを開けてみれば、実際にそうだった)。

この話をした後で、今の資源評価は甘過ぎで、
最悪の場合、数年後にいなくなるかも知れないと力説した。
産卵場の縁辺部が消滅しているというのは漁業者の実感としてあったのだろう。
通夜状態になってしまった。

俺の意見は、ABCLimit(=tac)8千トン。
その前日に、ある漁業者に「生活がぎりぎり成り立つ漁獲量はどの程度か?」ときいたところ、
「8千トンは必要」という返事が返ってきた。
俺的にはこの水準まで、実際の漁獲を減らすべきだと思った。
その上で、次の漁期に産卵場周辺の分布調査を綿密にやるべきだと主張した。
もし、中心部にしかいなければ、禁漁に近い措置を執るべきだし、
漁業者が主張するように沢山いるなら期中改定をすればよい。
獲らなかった魚は後で獲ればよいが、獲った魚は戻せないのである。
スケトウダラのような寿命の長い魚は、獲るのが1年遅れたぐらいでいなくなることはない。

実際にどうなったかというと、ABCLimit 15千トン、ABCTarget12千トンに対し、
TAC 36千トン、実際の漁獲量14.8千トンであった。
せめてABCを8千トンまで減らせればとも思ったが、どうせTACは2万トンぐらいになり、
実質的な漁獲量の抑制には繋がらなかっただろう。

この段階で8千トンまで漁獲量を減らせていたら、資源も漁業も生き残れたと思う。
残念なことに、骨抜きTAC制度のもとで、漁獲量にブレーキをかけるのは無理だった。

誰が言論の自由を殺したのか?

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読者のコメントより

以前「資源の減少は自然の法則」的な漁業者サイドの発言に対し、
「自分に都合のいいトコだけをとっている」と氏は批判しましたが、
「いいトコ取り」をする程度には、彼らも勉強(?)しているわけです。
では、何故、誰が、彼らの「信仰」を培ったのでしょう?

きつい言い方をすれば、「無知」が根本原因なのであって、
それを放置してきた者にも責任の一端はあるのではないでしょうか?
漁師の武器は、経験と漁獲技術です。
でも、資源管理論を学び、自らの物にしている漁師は
国内にどのくらいいるのでしょうか?
「学ばないのが悪い」「やる気があれば学べたはずだ」と突き放すのは簡単です。

なぜ、漁業者が資源に対して無知なのかを考えたことがありますか?

学ぼうにも情報が無いからです。

では、なぜ、資源に関する情報がないのでしょう・・・

ご存じの通り、水産業界に言論の自由はありません。
漁業者に都合が悪いことを言えば、よってたかって揚げ足をとられます。
先日、マイワシの減少に対する漁獲の影響について水産学会誌に記事を書いたところ、
水産庁から天下りした某組合の元理事がいろいろと動いているようです。
こういう人が出てきた段階で、内容が正しかろうがどうだろうが、
発言を撤回し、謝罪しないといけない立場の人も多いでしょう。
用心棒をつかって、言論封殺をしているのは業界自身です。
漁業者が水産資源に関して無知なのは、勉強不足ではなく、
その前の段階で「言論封殺」をしていることが根本原因なのです。
自分が情報を発信する立場になると、言論封殺の構図は実感できます。

発言の自由を奪えば、業界の自浄効果が失われます。
問題点を指摘する人間を排除して、
茶坊主だけを残していけば、組織は必ず滅びます。
組織をヨイショする発言しか許されていないのは、
ワンマン企業で良くあるパターンですし、戦時中の日本も同じでしょう。
どちらも、イケイケの時は良いですが、傾き出せば脆いものです。

メディアは、この圧力の影響を受けています。
例えば、水産経済の記事をこのブログでとりあげました。
ニューファンドランドのコッドは世界で最も有名な乱獲事例です。
これを自然環境が原因だと書くのは非常識です。
元論文と全く違う内容なので、飛ばし記事と呼んでも良いでしょう。
なぜ、こんな記事がでるかというと、漁業者が喜ぶからです。
逆の情報(乱獲の証拠)は幾らでもありますが、
漁業者が喜ばないから取り上げられません。
この手の記事は、読んだ読者は喜ぶし、
たとえ間違えていてもクレームはこないので、
書く方にとっては、利益がある安全な記事です。
もし、漁業を批判する記事を書いて、少しでも不正確な記述があれば、
鬼の首を取ったように叩かれるでしょう。
君子危うきに近寄らずというわけです。

漁業に都合が良いことなら、どんな嘘でもかまわない。
漁業に都合が悪いことなら、アラ探しをして徹底的に叩く。
こういうダブルスタンダードで、言論を封殺してきたのです。

「やる気があれば学べたはずだ」と漁業者を突き放すつもりは毛頭ありません。
情報を発信しようという人間を端からつぶしているのだから、
学ぼうにも、学べるはずがないのです。
ただ、そういう状況を造ったのは他ならぬ一部の漁業者ですから、
突き放すどころか、言論を封殺してきた責任を追及したいですね。

この閉塞的な状況を打破するために、俺は言うべきことを言ってきました。
これは、税金で研究をさせてもらっている者として、自分に課した義務です。
業界を批判する連載を業界紙に執筆し、テレビで北巻の乱獲を非難しました。
俺が関わったクロ現が、NHKで漁業の現状を批判した最初の番組らしいです。
業界紙で正面から漁業の現状を批判したのも、あの連載が最初でしょう。
どちらも、相当にインパクトがあったようで、
おかげで、いろんな場所で陰口をたたかれています。
それと同時にいろいろと応援してくれる人も出てきました。

漁業を立て直すためには、まず、言論の自由を取り戻さないといけない。
今後も、批判を恐れずに、言うべきことを言い続けます。

シェフの味、生徒「もの足りない」 英で給食離れ

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http://www.asahi.com/international/update/1016/TKY200710160424.html

 英国で政府が給食の質の向上に乗り出したが、かえって給食離れに拍車をかける結果になっている。
 それまでは、ポテトフライやフライドチキンなど脂っぽいものやチョコバーなど甘いものが多かった。新基準はそんなジャンクフードを一掃、カロリーにも栄養価にも気を配って加工品より生鮮食料品を使うよう指示。予算も大幅に増やした。
 ところが各地からの報道によると、脂っこくて甘ったるいものに慣れた生徒たちは「もの足りない」「チーズ臭い」などと敬遠。学校を抜け出してチョコバーなどを買い込んでくる生徒も出る始末。

うーむ、これは対岸の火事ではない。
美味しいモノを食べた体験が無いまま大きくなると、絶対にこうなるって・・・
子供達が本物の味に慣れるまで時間がかかると思うけど、
この試みは続けて欲しいものです。

英国は行ったこと無いから、よくわからんが、
北米では、大抵のレストランの食事は脂ぎっているわけだ。
「何でこんなにオイリーなのよ?」と友人に愚痴ったら、
「オイルを減らすと満腹感がなくなるから、客が減るらしい」とのこと。
そのくせ、猫も杓子もローファットの食材にはこだわるから、もう訳わかめ。

ちなみに、日本の給食はこんな感じ。
http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/0/e/0e8e7d41.jpg
コッペパンに、コロッケ、ポタージュスープもあった。
あと、クジラの竜田揚げもコリコリして美味かったなぁ。
給食の時間は大好きでした。

八戸 ハマ再生-欧州水産事情-

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ノルウェーの記事があった。

一人当たりの漁獲量に換算すると、ノルウェーが百七十一トンなのに対し、日本はわずか二十五トン。漁獲額もノルウェーが一千六十五万円、日本が六百九十四万円と一・五倍だ。
  ノルウェーの生産性の高さがうかがえる。漁業省に勤務するハンス・ハッダル氏は「システムの近代化が進んでいるので、少ない人数でも働ける。水産業界は近年、収益を高めているから、一部を除き国は補助金を出していない」と説明する。
 漁業形態や魚種構成の違いはあるが、水産資源が減る中での漁業の在り方について、日本が学ぶべき点は多い。

http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/kikaku2007/hama/hama01.htm

漁獲額ではなく、収益で見るとますます差が出るでしょう。
良いものは良いと認めて、それを見習う度量が昔の日本人にはあった。
すでに破綻している自国の漁業を自画自賛するだけの、今の漁業関係者は終わってるな。

まじめに資源管理をやれば、補助金は不要になるので、
補助金をばらまくだけの役所はいらなくなる。
水産行政も変わらなくてはならない。

失敗を次に活かすのが敗者の義務

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スケトウダラ日本海系群については、漁業を緊急停止して、
資源だけでも次世代に残すべきだと思う。
しかし、それは出来ない相談のようだ。
漁業者だってカスミをくって生きていけるわけではないし、北海道も金なさげ。
資源回復計画で、禁漁に近い措置がとれるかどうかが最後の期待だったが、
でてきたのが努力量の1割削減という時点で、アウトだろう。

俺が北海道の資源評価に参加した2004年が、
この漁業を存続させるための最後の勝負所だったとおもう。
すったもんだの議論をした上で、なぜか大甘なABCになり、
さらに輪をかけてダメなtacが設定された時点で負けだった。
俺としても、所詮はABC止まりという、研究者の限界を思い知らされた。
資源管理という意味では、完全な失敗。
これ以上ないぐらいの惨敗だ。

時計の針を戻すことはできないし、この漁業を守る手段は俺にはない。
だからといって、クジラだとか、海洋環境だとか、予算不足だとか、
そういう外部要因に責任転嫁して溜飲を下げればよいというものではない。
歴史を遡って、管理の失敗点を明らかに下上で、
スケトウダラ日本海系群の失敗を教訓を他の漁業へ活かすべきだ。
これがスケトウダラ日本海系群に関わった研究者の義務である。

俺が最も骨身にしみた教訓は、
「減ってからだと、何もできない」
「平常時(減る前)の準備で勝負は決まる」
「卓越年級群に過度な期待は禁物」

ということだ。

減ってから、管理をしようとしても手遅れ

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資源を酷く減らさないと自主管理ができないというのは、大問題である。
漁業を停止しても利益が出なくなるほど減ってしまってからだと、
実際には手遅れな場合がほとんどだ。
資源管理は、そもそも資源が減る前に導入すべきものなのだ。

俺がこのことを実感したのは、スケトウダラ日本海系群。
スケトウダラのabcに関わったものの一人として、
この資源のことはちゃんとまとめないとイカンと思いつつ、時間ばかりが過ぎていく。

画像ファイル "http://abchan.job.affrc.go.jp/digests19/fig/1910-4.png" は壊れているため、表示できませんでした。
これは、19年度の資源評価なのだが、半端なくやばい。
すぐに禁漁にすべきだが、そうもいかない事情がある。
この資源を利用している沿岸漁業の浜は、ほぼスケトウダラの漁業でもっているようなもの。
他に獲るものがないので、スケトウダラを獲らなければ経営が成り立たない。
しかし、スケトウダラ資源が無くなったら、村の存続自体が危ういのである。
まさに、抜き差しならぬ状態にあるのだ。

残された選択肢は2つしか無い。
1)そのまま漁業を続けて、数年後に資源をつぶして漁業も消滅
2)すぐに漁業をやめて、資源の回復を待つ

すでに漁業者に方向転換をする体力はない。
社会がサポートしなければ、資源の枯渇→漁業の崩壊→地域コミュニティーの壊滅となるだろう。
この厳しい状況で、ようやくスケトウダラ日本海系群の資源回復計画が動き出した。
管理課が頑張って予算を取ってきてくれたのはわかるし、有り難いことだと思う。
が、今の計画では努力量を1割しか削減できない。
これでは、焼け石に水だ。
今必要な措置は漁獲停止である。
努力量の削減なら、9割5分ぐらい減らさないと駄目だ。
それには莫大な公的資金が必要になるが、それだけの投資価値があるだろうか?
「減っていない、まだ獲れる」と言い張って、獲り続けたのは、漁業者自身であり、
それを税金で救済するのは社会的合意が得られないだろう。

漁業を存続させるためには、漁業を停止して、資源の回復を待つしかない。
しかし、それは既に出来ない相談なのだ。
このままずるすると漁獲を続けて、
数年の猶予の代わりに漁業の未来は閉ざされるだろう。

赤福よ、お前もか

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http://www.maff.go.jp/j/press/syouan/kansa/071012.html

国産だから、安全ってワケじゃない。
むしろ、日本の食品基準は外に厳しくうちに甘い。
また、取り締まる側と、取り締まられる側がつーかーだったりする。
十数年前から地元保健所が把握していたってのも凄いな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A6%8F

こういうものが見逃されてきた背景には、地元への温情体質があるのだろう。
特定の企業の不正を黙認することで、その企業は短期的な利益を増やせるかもしれないが、
不正はいつかばれる可能性がある。
その場合、日本の食品業界全体がイメージダウンする。

「食の安全」は、割高な日本の農業・漁業が生き残っていくための鍵である。
日本の消費者には国産品に対する宗教的な信頼感があるが、実態が伴っていない。
日本の魚を有り難がっているのは、日本の消費者だけ。
高く買う先進国には買い手が付かず、
途上国に二束三文でたたき売られているのが現状である。

資源管理でも「防火に勝る消火無し」なのだ

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読者から貴重な情報をゲットした。
俺が提唱した自主管理に必要な4つの条件のうち一つを欠いても、
自主管理がちゃんとできている例があるという。
この事例は、俺も初めて知ったが、実に興味深い。

自主管理についての4つの条件はとても説得力があり、僕も友達に自主管理の説明をするときに使わせてもらいます。

しかし、資源の壊滅的な減少について、ちょっと意見があります。
先日もお話した兵庫のイカナゴの事例なのですが、兵庫県の漁師はこの条件を満たしていないんですよ。
勝川さんの教えを信仰していた僕にとってはそれは衝撃的でしたww
昭和30年代に兵庫県がイカナゴの産卵場となるじゃりを工事のために採集しようというしたんですよ。しかし、イカナゴ漁師がこれに猛反対し、産卵場を守ったという歴史があるらしいのです。そのため、イカナゴの資源に対する思いが強かった。結果として後の解禁日統一決定の指標となる試験場の資源量調査のデータもかなりスムーズに受け入れられたのでしょう。

まだイカナゴの事例しか存じないのですが、資源が減っていないのに、資源の重要性がわかり、自主的な管理が成功しているのは貴重な事例と言えると思います。

今回の事例で注目していきたいのが、自分達が魚を獲りすぎると、翌年の漁獲量に影響があった点です。漁業者が獲りすぎると、その反動がすぐに実感できる点。
漁がどれだけ影響を与えているかを実感させることができる方法を模索できれば自主管理の成功に近づくのでしょうね。

この資源が俺があげた4つの条件のうちの一つを欠いているにもかかわらず、
ちゃんとした管理ができている理由を考察してみよう。
欠けているのは、 条件4の「資源の壊滅的な減少を経験」だ。
この条件が必要な理由は2つある。
a)漁業者全員の危機感を高めて、管理に強制力を持たせることが出来る。
b)すでに経済に成り立ってないので、禁漁などのきびしい措置がとれる。
上のイカナゴの場合、開発により資源が存続の危機にあり、漁業者自らの手でそれを守った。
漁業者の意識を高めるためのイベントのおかげで、上のa)については満たされたのだろう。
補償金を蹴って、資源を守った漁業者の心意気はすばらしい。
で、資源が減る前に管理を開始したのがポイントだ。
資源が枯渇した状態なら、禁漁レベルの措置が必要になるが、
資源状態が良い段階なら、そこまで厳しい措置は必要ない。
減らさないように予防的に振る舞えば、b)は必要ないのだ。

資源を回復させるより、資源を減らさない方がずっと楽だし、痛みも少ない。
「禁漁したら、資源が劇的に回復しました」というような派手さはないが、
予防原則で資源を減らさなかった、この事例の方が資源管理として洗練されている。
これは、今後の沿岸資源の管理を考えていく上で、極めて重要な事例だと思う。

自主管理には幸運が必要

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先に述べたように、非常に厳しい条件がそろって、はじめて、
強制力を実行力をもった資源管理を始めることが出来る。
しかし、資源管理を始めたからと言って、安心するのはまだ早い。

儲けが殆どでないぐらい減らしてしまった資源は、
獲らなくてもそのまま低迷する可能性がある。
減らしすぎると、資源の増加力が失われてしまうのだ。
また、回復するにしても、10年、20年といった時間がかかる場合もある。
自主管理の成功例は、管理開始後、すぐに資源回復という結果が出た。
ある意味、運が良かったのである。
杉山さんは、「ハタハタが回復したのは本当に運が良かった。
やっぱり、ハタハタは神のさなかなのです」と語っていた。
当事者は、そのことを認識しているのである。

たしかに、自主管理の成功例の陰には幸運もあった。
ただ、その運を活かせたのは、きちんとした管理システムをつくった現場の人間の功績である。
人事を尽くしたからこその天命であった。
海洋環境の影響などで、資源の生産力は大きく変動する。
だから、資源管理は出来ないと言う漁業関係者は多い。
適切な管理システムが欠如していたら、自然現象で一時的に資源が増加しても、
資源を枯渇させてしまうのは時間の問題だろう。
マサバ太平洋系群しかり、サワラ瀬戸内海系群しかりである。

自主管理については、いくつかの朗報もある。
自主管理は水平的には広がっていないが、
既に成功例がある場所では垂直的な広がりを見せている。
愛知では、イカナゴに続き、イカの自主管理に取り組んでいるが、これは期待しても良いだろう。
しかし、垂直的な広がりには、限界があるのも、また事実である。
以前、冨山さんに「一人でいくつぐらいの漁業を自主管理できますか?」と質問したら、
「4つぐらいかなあ」という話だった。
ただでさえ、人の数も質も厳しい中で、冨山さんレベルの人間を、
管理が必要な資源の数/4人もそろえることはまず不可能だろう。

いくつかの好条件が重なったときのみ、自主管理は開始できる。
現状では自主管理は資源が枯渇した状態から開始せざるを得ない。
資源が回復するかどうかは、運だのみになってしまう。

今のままでは、厳しい条件をくぐり抜けた幸運な漁業しか生き残れない。
それでは、産業としての漁業は滅びたも同然である。
自主管理を水平的にも垂直的にも広げていこうと思ったら、
自主管理に欠けている条件を、外から強制的に補う必要がある。
資源が枯渇する前に、漁獲にブレーキをかけることを義務づけるのは国や行政機関の仕事だろう。

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