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漁業改革 Archive

資源管理の成功例:ノルウェー(1)

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ノルウェーの最近30年の歩みは、日本漁業の将来を考えるうえで、貴重なモデルケースになると思う。
1970年中頃までのノルウェー漁業は補助金漬けで、漁業経営は悲惨な状態であった。
「補助金漬け→過剰努力量→資源枯渇→漁獲量減少」というおきまりの路線を進んだ。
乱獲スパイラルに巻き込まれて、多くの漁業が瀕死の状態であった。
まるっきり、今日の日本と同じ状況だ。
そこから、ノルウェーは漁業政策を転換して、20年がかりで漁業を立て直した。
減少した資源を回復させて、漁業生産高を着実に伸ばしている。

資源の枯渇が最も顕著だったNorth Sea herringを例に、どのようにして漁業を立て直したかを見てみよう。
この資源の長期的なデータはICESのレポートにまとまっている。
http://www.ices.dk/products/AnnualRep/2005/ICES%20Advice%202005%20Volume%206.pdf
以下の図は、このpdfファイルのp195からの引用である。

North Sea herringは、伝統的に重要な資源であり、1965年のピークには120万トンもの水揚げがあった。
しかし、過剰な漁獲圧によって、60年代後半から坂道を転がり落ちるように漁獲量が減少した。

norway01.png
 
SSB(産卵親魚バイオマス)を見ると、1960年代の高い漁獲量は、資源を切り崩していたことがわかる。
その後も漁獲圧を上げ続けたので、1970年代後半に親魚量はほぼ壊滅状態になる。
norway02.png
 
下の図が、漁獲死亡係数の変動である。
1960年代後半から、資源が減少するに従って、漁獲率が急上昇していく。
漁獲死亡係数F=1.5というのは、現在の日本のマイワシ漁業に匹敵するような非常識に強い漁獲圧だ。
現在のマイワシ漁業と似たようなことをやっていたのだ。
ただ、0歳や1歳の漁獲圧は低めに保たれていたので、日本のマイワシよりもマシだろう。
norway03.png
 
1970年代中頃には、このまま漁業を放置すれば、資源は崩壊し、漁業も壊滅することは明白だった。
そこで、ノルウェー政府は、努力量を抑制すると同時に、厳しい漁獲量規制を行った。
1970年代後半のFの急激な減少を見て欲しい。
1.5もあった漁獲死亡係数が、殆ど0まで下がっている。
70%近い漁獲率の漁業を、ほぼ禁漁にしたのだから、かなり思い切った措置である。
経済は大混乱したが、これによって崩壊の瀬戸際にあった資源を生き残らせることが出来た。
あと一歩でもブレーキをかけるのが遅ければ、Newfoundlandのコッドのように壊滅していただろう。
首の皮一枚で、資源が生き残ったのだ。

禁漁の効果は、徐々に現れて、1980年代には資源は目に見えて回復した。
その後は、資源の回復にあわせて漁業を復活させたが、努力量を厳しく抑制する政策がとられたので、
資源は以前の水準に戻っても漁獲率は低く抑えられたままだった。
近年、漁獲量が伸びていないのは、予防的措置に基づいて漁獲率を低めているからであり、
SSB(産卵親魚バイオマス)を見ればわかるように資源状態は極めて良い。
短期的な漁獲量を追求するのではなく、資源を良い状態に保ちつつほどほどの漁獲量で利用しているのだ。
漁獲量は抑えつつも、世界的な魚の値上がりを背景に、着実に生産高を増やしている。
norway04.png

North Sea Herringを回復させるために、ノルウェー政府は画期的な資源管理をしたわけではない。
回復のための管理は、努力量を抑制と、TACによる漁獲量の規制のみである。
使い古された管理手法であっても、徹底して行えば効果はでるのだ。

過剰漁獲量はガン細胞のようなもので、放置すれば資源を食いつぶし、
健全な経営体まで乱獲の渦に引きずり込んでしまう。
ノルウェー政府は、大規模な外科手術によって、
過剰な努力量を削減し、資源と漁業の一部を生き残らせることに成功した。
漁業が自然淘汰されるのを指をくわえて眺めていたならば、
Newfoundlandのタラのように資源を崩壊させていただろう。
その場合、今でもこの漁業が存在しない可能性が高い。
ノルウェー政府の決断が資源と漁業を救ったのだ。

この例を見ると、日本海北部のスケトウダラだって、諦めるのはまだ早いと思う。
今すぐにTACを5000トンぐらいに落として、その漁獲量で食っていけるだけの船に減らす。
そして、今後10年は船を一切増やさなければ、きっと回復するだろう。
首を完全に切ってしまうか、首の皮一枚残せるかで、漁業の運命は右と左に泣き別れで、
今がその境目なのだろう。

漁業システム論(8) ジーコジャパンと日本漁業

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世界のサッカーでは、システムとして機能するチームが勝ってきた。
スーパースターを並べればそれで勝てるわけではない。
歴代のサッカーチームのなかで、最もタレントが豊富だったと言われる
黄金のカルテットですら、結果を残せなかったのだ。

ジーコ・ジャパンのシステムは素人目にも破綻していた。
システムが破綻しているときに、選手個人に出来ることはほとんど無い。
ジーコ・ジャパンがドイツで惨敗したのは選手の責任ではない。
誰がピッチに立とうと、同じような結果に終わっただろう。
システムの不全は、監督であるジーコの責任だ。

だからといって、ジーコを非難してもしょうがない。
彼なりにベストを尽くしたのだろうから。
世界のサッカーは90年代以降、戦術が急速に進化したのだが、
ジーコはその時期に日本でプレーして、そのまま引退した。
プレイヤーとしてシステマチックな近代サッカーを経験していないし、監督経験もない。
80年代のサッカーしか知らない人間に、近代的なチームを作れといっても無理だろう。
ジーコを監督に選んだ時点で、システムが破綻することは確定的だった。
ネームバリューだけでジーコを選んだのが日本サッカー協会であり、
それを暗に支持したのが日本のサッカーファンなのだ。
ファンの多くは、日本を応援をして騒ぎたいだけで、サッカーの内容には興味がないだろう。

ジーコジャパンと日本の漁業は共通点が多い。
上の文章を日本の漁業に置き換えると次のようになる。

漁業システム論(7) 共同体は十分条件ではなく必要条件

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この前の記事では、漁村共同体管理の限界について論じたのだが、
「現にコミュニティーベースの管理の成功例があるじゃないか!」
という反論があるだろう。
たしかに、自主管理の成功例はあるにはあるが、
引き合いに出されるのは、秋田のハタハタ、伊勢湾のイカナゴ、京都のズワイガニの3つだけ。
逆にこれしか上手くいっている事例が無いのだ。
ここ数年、新しいものは出てきていないし、
俺が把握している範囲では上手くいきそうな次の計画は見あたらない。
3つの例外的に上手くいった事例を除いて、全く広がっていかなかった。
成功例があるということよりも、成功例が非常に少なく、
後に続く漁業が無いことに着目すべきだろう。
3つの成功例の共通点から、自主管理が機能するための条件が見えてくる。

1)生産力が高い資源を自分たちだけで囲い込める
2)コミュニティーに個人の利益よりも全体の長期的利益を重んじるリーダーがいる
3)長期的な視点から、漁業者にものが言える現場系研究者がいる
4)資源の壊滅的な減少を経験

成功例である3つの漁業は、共同体で管理をするための条件が整っている。
ここまで条件がそろった資源は、かなり例外だろう。
さらに、これらの条件がそろった資源だって、最初から上手く資源を利用していたわけではない。
どの例をみても、過去に資源を壊滅的に減少させているのだ。
資源の崩壊を経験した後に、ようやく厳しい管理が出来るようになった。
コミュニティーがあれば乱獲を自動的に回避できるといった、
甘っちょろいものではないのだ。

漁村共同体があるから、管理をしなくても乱獲が回避できるわけではない。
実態は全く逆なのだ。
日本は行政主導のトップダウン型管理が機能していないから、
漁村共同体でボトムアップ型管理ができる資源しか守れない。
漁村共同体は、乱獲を回避するための十分条件ではなく、必要条件なのだ。
日本で資源管理が成功するのは、ラクダが針の穴を通るようなもの。
その針の穴がコミュニティーベースの自主管理であり、
針の穴を通り抜けた3匹のラクダが、ハタハタ漁業、イカナゴ漁業、ズワイガニ漁業である。

現在の日本で機能している資源管理の実例から学ばない手はない。
日本の漁業を守るためには、この3つの成功例を手本に、
自主管理の条件が満たされている資源から管理を進めるべきだろう。
自主管理が出来そうな資源は限られると思うが、探せばいろいろとあるはずだ。
11月の海洋研のシンポジウムでは、ハタハタとイカナゴの当事者の話が聞けてしまう。
3つのうち2つをまとめて勉強できてしまう、貴重な機会はそうあるものではない。
ズワイガニがそろえば大三元だったが、小三元でも実質4翻だ。
全ての水産関係者は、午前中だけでも聞いておくべきだろう。

漁業国益論 (7) まとめ

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国益の変化
終戦直後の国益:食糧増産
高度経済成長期以降の国益:食料の安定供給

現在の水産業の分析
無秩序な獲り尽くす漁業が日本全国で展開されており、
その結果として、漁業生産はコンスタントに減少を続けている。
水産行政は、つくり育てる漁業を維持しつつ、公共事業に投資するスタイル。
補助金で、すでに過剰な漁獲努力量を増やしたり、採算が獲れない漁業を維持して、
資源の更なる枯渇の原因をつくる。

今後の予測
選択肢としては、小さな水産庁(自由競争)、大きな水産庁(資源管理)の2つがある。
現状のままでは、国内の漁業生産は確実に衰退する。
その結果、水産庁は縮小し、自由競争を基本とする漁業のみが残るだろう。
現状維持などという選択肢は無く、
政策変更をしない限り小さな水産庁へと進むことになる。
資源の持続性を第一に考えて、資源管理に本腰を入れて取り組めば、
水産業を立て直して、長期的に発展させていくことも可能である。

小さな水産庁
漁業の経済規模から言えば、経済産業省 食糧庁 水産課ぐらいで充分だ。
小さな水産庁が実現した暁には、漁業は自由競争が基本になり、
行政は最低限の仕事だけをやることになる。
自由競争をすれば、不合理漁獲による生産力低迷は避けられず、
業界の空洞化が進むだろう。
それでも、現在のように過剰漁獲を税金でサポートするよりはマシだろう。

資源管理重視
資源の持続性を維持した上で、漁業者の収益を最大化するような漁業を行う。
今のようにあるものをひたすら獲るのではなく、
経済的に合理的なサイズを、必要とされる量だけ、計画的に漁獲する。
資源の再生産へのダメージを最小にしつつ、最大の収益を上げる。
環境変動など、不測の事態によって資源が枯渇してしまった場合は、
国の補償プログラムによって、資源回復のために漁獲を停止させつつ、
漁業者の生活を保障する。
正直者が馬鹿を見ないために、違法操業や密漁などは厳しく取り締まる。

水産行政の貢献度一覧表

 
国民の利益
漁業者の利益
ゼネコンの利益
食料の安定供給
短期的
長期的
公共事業

現状
(獲り尽くす漁業+公共事業)

×
×
小さな水産庁
(獲り尽くす漁業)

×

資源管理
(残す漁業)
×

記号の意味 ○:貢献度大 △:いまいち ×:足を引っ張る

漁業国益論 (6)

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国益という観点から、
水産行政のあり方を根本的に問い直す必要がある。

現在の国益は、食料の安定供給である。
そのためには生物資源の持続性を維持することが不可欠だ。
現在の漁業は、資源を持続的に利用しておらず、国益に反している。
にもかかわらず、大量の税金が漁業に投入されている
(漁業者のもとに届いていないという別の大問題もあるが、、、)。
対価は受け取るが、サービスは提供しないでは通用しない。
選択肢としては、対価を受け取るのを止めるか、
サービスをちゃんと提供するかの二者択一だろう。

産業と国益の関係を、根本的に問い直す必要がある。

漁業は、国益に答える義務を負う覚悟があるか?
国民は、漁業に国益の対価を払う合意があるか?

そのことを問い直す必要があるだろう。

現在の一般会計は、年間1800億円→国民一人あたり1500円
特別会計もいれると、その数倍にふくれあがるはずだが、詳細が不明。
3000円~6000円の範囲に収まるだろう。
俺の個人的意見をいうと、
魚をこれからも食べ続けることができるなら、
これぐらいの出費は全然惜しいと思わない。

1)漁業は国益に応えて、納税者はその対価を払う
国民全体で水産物安定供給のための費用を捻出する以上、
漁業者には資源を持続的に有効利用する義務が生じる。
「俺たちの生活がかかっているんだから、部外者はつべこべ言うな」とか、
「魚をどこまで減らしても漁業者の勝手でしょ?」という言い分は通用しない。
漁業者には乱獲をしたり、資源を枯渇させる権利が無くなるのだ。

現在の科学水準では、適切と思われる漁獲を行っていても、
資源が枯渇したり、経営が立ちゆかなくなったりする場合が必ず出てくる。
そういった場合に、漁業者が乱獲も首つりもしないで済むような仕組みが必要だ。
現在、公共事業に使っている予算の10%も回せば楽勝だろう。

2)漁業は国益には縛られず、納税者から対価を受け取らない
水産資源は、漁業者の私有物であり、
生かすも殺すも漁業者の勝手という考え方。
経営が厳しくなれば、勝手に乱獲をすればよく、
資源が枯渇すれば勝手に廃業すればよい。
現在の漁業はそんな感じだろう。
無秩序な自由競争の元では漁業という産業は確実に衰退する。
競争→過剰投資→資源枯渇→産業の荒廃
というコンボは共有地の悲劇として古くから知られている。
全体の利益を確保するためには、抜け駆けを防ぐ権力が必要になる。
その役をすべき水産庁が、全く機能していない。
だから、日本で資源管理がそれなりに上手くいくのは、
比較的小規模な浜で生産性の高い資源を占有している場合に限られる。
秋田のハタハタ、伊勢湾のイカナゴ、京都のズワイガニのような
一部の地域性の高い資源だけが残っても、日本の漁業に未来はないだろう。
この方向を選ぶなら、将来の水産物の供給は輸入に頼ることになるだろう。
また、EEZ内の生物資源を持続的に有効利用する義務が明記されている
国連海洋法条約を破棄するのが筋だろう。

日本漁業はどちらを選択するのだろう?
常識的に考えて、後者を公式に選ぶというのはあり得ないだろう。
国際社会に向けて、「日本は無責任な国内漁業を支持します!」
などというのは無理だ。
かといって、水産基本計画を見る限り、資源を管理する気はなさそうだ。
「食糧供給を安定させます」と外部には言っておいて、
実際の漁業は無秩序なままでもよいと思っているだろう。
その見通しはズバリ甘すぎる。今後の展開を予想してみよう。

水産庁が現状のままであれば、漁業はじり貧を続けるだろう。
国家財政が厳しい中で、縮小する産業への予算は削られ続けるだろう。

資源低迷→漁業生産低下→水産業衰退→予算削減→食料庁水産課

サプライズ人事&早速の不祥事などから、別の芽も出てきた。

トップが大失策→農水省不要論→農水省解体が行政改革の目玉に→水産庁消滅

現在のスタイルを維持したところで、現状は維持できない。
結果として、漁業に関係する全てのセクションが縮小の方向に進んでいくだろう。
漁業者にとっても、国民にとっても、役人にとっても、良い選択だとは思えない。

一方、資源管理を選んだ場合、最初は厳しいが、長期的にはバラ色の未来が待っている。

管理徹底→漁獲減→資源回復→漁獲増→漁業者ウハウハ→国民満足→海洋省誕生

日本の沿岸の生物生産力はまだまだ高い。
やりようによっては、持続的な漁獲量を倍増させることも可能なのだ。
長期的視野から、合理的に問題を整理していけば、
長い目で見て、みんなが幸せになる方向はある。

漁業国益論 (5)

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税金の無駄遣いは確かに問題だ。
でも、水産行政の問題は更に深刻と言えよう。

行政が特定の産業を援護射撃しようとしても、無駄に終わる場合が多い。
現場を知らないとか、身銭を切っていないから真剣みがないとか、
いろんな原因があるだろう。
これは漁業に限った話ではない。
たとえば、経済産業省も過去にいろんな無駄遣いをしている。

第5世代コンピュータ
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1a529720d99d05f354e96d4b82a1b331

シグマ計画
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/cfae4a4a5672fc806b05a2d2c8ec9ea9
プロジェクト×(ペケ) -失敗者たち-「Σ(シグマ)計画」
岸田孝一、Σを語る

最近では、こんなのもある。
グーグルに対抗、「日の丸検索エンジン」官民で開発へ
見事なまでに、当事者以外からはなんの期待もされていない。
日の丸親方のサーチエンジンなんて、誰も使わないだろ。
中国の国営サーチエンジンみたいに、
政府に都合が悪い情報をブロックしたいのか? 

水産分野以外でも、無駄遣いは山のようにあるが、
これらのプロジェクトは、ばらまかれた税金が無駄になるだけで、産業の首を絞めない。
特定の企業(産業)に対する財政支援は国際競争力の観点から有益だ。
たとえば、車検制度などは自動車産業への援護射撃であり、
日本の自動車産業の国際競争力に寄与している。
漁業以外の産業は、投資を増やせば、生産が増えるので、
ばらまき型の援護射撃もある程度は機能するのだ。
漁業の場合は、自然の生産力という限界があり、
ある水準以上に投資を増やせば、生産は減ってしまう。
現在は過剰投資の状態にあり、不用意に税金をばらまくと、生産は減少する。 

現在の沿岸漁業は「水産土木栄えて、水産業滅びる」という状態だろう。
地元の意向などまるで無視して、いつの間にか工事が始まる。
漁業にはなんの役にも立たない施設のために、沿岸の生産力が奪われる。

また、漁業に対する補助金も、産業の長期的発展を阻害する。
借金で漁獲装備を整えさせて、乱獲せざるを得ない状況をつくる金融支援。
資源回復計画と称して、採算が合わないような不合理漁業を温存し、
資源回復の芽を摘む休漁補償。

資源管理型漁業だって、名ばかりだ。
もともと少ない生物資源の基礎研究の予算は削られる一方。
科学的に乱獲と判断されるような漁獲枠を設定し続けるTAC制度。
減少が誰の目からも明らかな資源の評価票から、
「資源が減少した」と言う記述を取り除くために怒鳴り込んでくる役人。

海の幸を永続的に利用できるように、海の生物生産を保つこと。
これが行政の最大の責務だと思うのだが、
実際にやっていることは、その逆に見える。

漁業国益論 (4)

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土木関係の公共事業の話題がコメント欄で多く出てきたので、
予算の内訳を見てみよう。
平成18年度の農林水産庁予算のページ
http://www.maff.go.jp/soshiki/kambou/kessan/h18/kettei/index.html

予算のpdfファイル
http://www.maff.go.jp/soshiki/kambou/kessan/h18/kettei/pdf/h18yosan_gaiyou.pdf

kokueki1.png

最後の漁港・漁場の整備が大きなウェイトを占めている。
より詳しい内容については、本文参照のこと。

公共事業はこんな感じ。

1451億円
国際水産物強化緊急対策事業

1122億円
種苗放流と連携した漁場環境の保全創造
複数の事業主体による漁場整備

やはり、桁が違う。
水産名義の予算の大部分が土木工事に流れるのは皆さんご存じの通り。
残念ながら、水産土木については、知識が無いので、
このブログに書けるようなネタがありません。
ここの部分に触れないのは両手落ちとも言えるのですが、
勉強をしようにも、情報がネットにも落ちていない。
水産土木については、現場の声が重要な情報源となりますので、
引き続き、コメント欄にて情報提供をお願いします。

漁業国益論 (3)

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現在は、フード・セキュリティーという観点から、国益が論じられている。
自国で安全で美味しい食料を安定供給するのが国益だと言うのだ。
確かに、食料の安定供給は国としての生命線であり、
多くの納税者はそのために税金が遣われることに異論はないだろう。
だが、水産物の安定供給の最大の障害は、現在の「根こそぎ獲る漁業」だろう。
そして、すでに経営的になりたっていない乱獲漁業を支えているのが税金なのだ。
この事態を株主であるところの納税者は納得するのだろうか。

設備投資を促す補助金
設備投資を促す補助金は、短期的には漁獲量を増加させるが、
長期的には資源の枯渇を招いた。
漁業者は、借金を返済するために、
枯渇した資源に強い漁獲圧をかけざるをえない状況に追い込まれた。

つくり育てる漁業
種苗放流の成果はごく一部の種にとどまり、
魚類では、ほとんど成果を上げていない。
種苗生産の成功例であるヒラメだって、種苗の生産には成功したが、
資源や漁獲量の増加には結びつかなかった。

休漁補償金
資源回復計画の一環として、漁師に休漁をしてもらう代償として、
漁に出られなかった日の費用を税金で保証する制度がある。
これは、資源管理と言うよりは、過剰な漁獲能力の温存である。
例えば、大中まき網という、沖合に大量の魚が居ることを前提とした漁法がある。
マイワシバブルで、拡張した漁獲能力の大部分が未だに残っている。
この過剰な漁獲努力量が、90年代にマサバが増加しようとする芽を2回とも摘んだのだ。
休漁補償金が大中まきに遣われているのだが、
税金をつかってまで、大中まきを温存する理由が俺には全くわからない。
少なくともあと10年は今の船数が必要になるような資源量にはならないだろう。
安易な休漁保証は、資源の回復の芽をつむだけだ。

設備投資の補助金も、休漁保証金も、
漁獲努力量を増やしたり、肥大化した努力量を維持する効果がある。
これらの補助金は、その場しのぎの代償として漁業の寿命を削ってしまう。
補助金で、漁獲努力量を膨張させ続ける限り、
日本の漁業に明日はないだろう。
日本の漁業の補助金に関しては、国際的な圧力が強まっており、
実は存続のピンチだったりする。
このあたりについての情報も近いうちにまとめたい。

なぜ、水産庁の施策は漁業を行き詰まらせるのか?
「日本近海に魚がいない」というのが漁業の行き詰まりの本質だ。
その背後には、
「自然の生産力の限界を超えた漁獲能力」という根本的な問題がある。
資源の生産力と比べて、過大な漁獲能力を維持している限り、
漁業が立ちゆかなくなるのは時間の問題だ。
どんなに資源管理を頑張っても、少し歯車が狂えば、そこで終わり。
現在の水産行政は、過剰漁獲能力という根本的な問題に取り組んでいない。
その代わり、漁業者の目先の問題を解決するために奔走している。
これでは、漁業が悪循環で滅びるのは時間の問題だ。

漁業者は、根本的な問題解決よりは、目先の対処療法を望む。
漁業者に根本的な問題解決を求めるのは酷だろう。
すでに尻に火がついている人間に、
火事の問題を分析して、再発を防止する策を練る余裕はない。
漁業者が、尻の火を消すために必死になるのは、仕方がないだろう。
だれだって、そうなるはずだ。

行政には、長期的な視野から、産業の発展を考える義務がある。
尻に火がついた漁業者にあめ玉を配るだけが仕事ではない。
産業に内在する根本的な問題を解決するためにリーダーシップを発揮して欲しい。
それこそが、国益だろう。

漁業国益論 (2)

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漁業者の利益と国民全体の利益(国益)が乖離したときに、
水産庁は、国益よりも、むしろ、漁業者の利益を選択した。
たしかに、漁業者も国民ではあり、漁業者の利益は国益と言えないこともない。
「漁業者も国民だからサポートするのは当たり前」という理屈であれば、
漁業者からの税収入でやりくりできる規模の予算にすべきである。
産業規模から言えば、経済産業省 食糧部 水産課 ぐらいが妥当だろう。
GNPの0.4%に過ぎない産業に不相応な予算をつかう以上は、
漁業者以外のの国民にサービスを提供する義務があるはずだ。
こういう視点が、漁業者にも行政にも欠けていると思う。

公海漁業が下火になるのは明らかなので、
漁業を維持するには沿岸資源を大切にする以外の方向性はなかったはずだ。
本来であれば、この時点で資源管理を始めなくてはならなかった。
しかし、漁業者はそんなものは望んでいなかった。
漁業者は、「もっと獲りたい、もっと獲らせろ」と要求する。
水産庁は、漁業者の期待に応えるべく、様々な施策を行った。
漁業者と水産庁は、のび太-ドラえもん関係になっていく。
のび太の要求に応えるために、全国に栽培漁業センターを建てたりした。
ドラえもんが大盤振る舞いを続ける背景には、
右肩上がりの税収入という国内事情があった。
「どうやって、税金を消化するか?」という時代が到来したのだ。

水産庁の援護射撃は、主に設備投資の促進による漁獲効率の向上と、
種苗放流による生産力の底上げであった。
これらの援護射撃は、漁業者からは歓迎されたが、
長期的には漁業が行き詰まる原因となった。
すでに、漁獲は飽和状態で、漁場もどんどん縮小していくなかで、
漁獲効率を向上させたらどうなるかは、一目瞭然だろう。
資源が減少して、獲るものがなくなるのは時間の問題だ。
過剰漁獲量は真綿でクビを締め付けるように漁業経営を圧迫した。
借金がある以上、資源が悪化したとしても、漁業を辞めるわけにはいかない。
こうして、資源・漁業は悪循環の坂道を転がり落ちていった。
また、作り育てる漁業への過度の期待が、
限られた自然の生産力を大切にする意識を低くしたことも否めない。

水産庁の援護射撃は空しく、日本の漁業生産(マイワシを除く)は下り坂。
でも、こうなることは少し考えればわかったはずだ。
すでに世界中で漁獲能力の過剰が問題になっていた。
また、政府による補助金が過剰漁獲問題を深刻化させることは広く知られていた。
例えば、70年代に海底油田が発見されて財政が潤ったノルウェーは、
漁業に気前よく税金をつぎ込んだ。
その結果、漁獲能力が急増し、70年代後半に北海ニシンをほぼ崩壊させてしまった。
補助金→過剰な漁獲能力→乱獲 という事例は枚挙に暇が無い。
構造的にそうなって、当然なのだ。
世界では、補助金=悪 というのが常識であり、
国の漁業政策は、どうやって漁業への過剰投資を抑えるかが主要課題となっていた。
世界的に見ても、生産性が高いのは、漁獲努力量の抑制に成功した漁業のみである。

さて、日本の場合は、そのままズルズルと補助を続けて、現在に至る。
海外の失敗から学ぶことなく、失敗が約束されたレールの上を走り続けた。
借金をして漁獲能力を向上させても、資源が低迷して獲るものがない。
それでも、漁業者は借金を返さないと行けないので、
値段が付かない小型魚を根こそぎ獲り、単価の低さを量でカバーしようとした。
そんなことをするから、魚価は下がるし、ますます資源は減少するのだ。
その結果が、借金漬け、資源枯渇、魚価低迷という現在の三重苦だ。
切り札の種苗放流も、金ばかりかかって、効果は焼け石に水だった。
漁業が存続しているのは、日本近海の生産力の高さに依るところが大きいが、
それもいつまでもつことやら。

漁業国益論 (1)

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現在の水産業は税金に依存している。
例えば、18年度一般会計予算を見てみよう。
水産庁の予算は約1800億円で、漁業の生産額の12%を占める。
特別会計まで考慮すると、この数字はさらに膨らむことになる。
農林水産業以外の産業をサポートする経済産業省の予算は7828億円に過ぎない。
如何に漁業が優遇されているかがわかるだろう。

産業規模と比べると、べらぼうの税金が投入されているのだから、
国民の負担で漁業を支えていると言っても良いだろう。
納税者は、株式会社の株主の相当するのだ。
最大の違いは、株主は自分の意思で株を買うし、株で儲かることもある。
納税者は、一方的に、有無を言わさず、むしり取られるだけだ。
漁業(漁業者および水産庁)は、
株式会社が株主に対して果たす以上の責任を負うべきだろう。
税金で支えてもらっている以上、国益を果たす義務がある。
では、国益とはいったいなんだろうか?
日本の水産業の歴史を、国益という観点から振り返ってみよう。

戦後からオイルショックまでの国益は、食料の確保であった。
戦後の漁業生産の拡大は、主に漁場の拡大によるものだった。
とにかく、たくさん獲る。獲れなくなれば、もっと遠くに行けばよい。
そういう時代だった。
そして、水産庁は漁業者がより多く獲るためのサポートをした。
漁業者と水産庁の二人三脚で、とにかく多く獲る体制を作り上げた。
これは、国益にも適うものだった。
漁業者の関心と国益は食糧増産という点で一致しており、
水産庁はそのために協力をすれば良かった。

1970年代に入ると、日本の漁場は水産業の構造的な転換を迎えた。
世界中の漁場から徐々に閉め出され始めると同時に、
国内でも大きな変化が起こっていた。
1970年から、大規模チェーン店の外食産業が急速に広がっていた。
国民に一通り充分な量の食べ物が確保され、
食べるもの不足していた時代から、飽食の時代へと移行していたのだ。
食糧増産=国益とは言い切れない状況になったのだ。

消費者の高級志向に答えるために増殖事業を発展させることになる。
養殖の起こりは、瀬戸内海のクルマエビである。
どうみても、食糧確保と言うよりは、高級志向を満たすためだろう。
グルメ嗜好を満たすために、税金を使う必要があったかは疑問である。
旨いものを食べたいなら、その人が対価を払うべきだと俺は思う。

本来であれば、水産業と国のあり方をこの時点で問うべきだったと思う。
漁業から還元される税金で運営できる程度の小さな水産庁を目指すのか、
今まで同様に国民の税金を使って漁業をサポートし続けるか。
大きく分けて2つの方向性があったのだが、
何の議論もなく、後者が選ばれてしまった。

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from 18 Mar. 2009

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